KARANOがれーじ

KARANO 枯野 1.古事記に登場する仁徳天皇所有のハイスピードクルーザー。毎日灘波と淡路を往復し清水を宮に運んだ。 2.我が愛車のニックネーム。毎週我が家とスーパーを往復しPBの飲料水を運んでいる。 3.枯野さん(ハンドルネーム)。 鍵穴型古墳マニア。持病持ちポタサイクリスト。

歴史散策

滝山城攻略その1

週末にかけて八王子方面の仕事ができたので、合間をみて以前より行ってみたかった所にいくことにした。

滝山城址。

1521年に山内上杉氏によって築城された天然の要害だ。1559年に北条氏照の居城となり、大幅な改修が施されて関東屈指と言われる大規模要塞となった。1587年に氏照は八王子石神井城址城に本拠を移すとその役目を終えて、やがて廃城となる。
現在は自然公園となり丘陵の散策スポットになっている。

古墳ファンを自称しているが中世城郭も嫌いではない。昨年は石神井城址、一昨年は坂本城址を訪れた。滝山城も気になるスポットであった。

仕事の合間という条件で、時間は約90分。普通ならゆっくりと昼食をとってつぶす時間だ。現場から滝山自然公園までは約20分。散策に使える時間は50分程度。この50分で天然の要害を攻略しなければならない。
短期間に城を落とすために、最短ルートから攻めることにする。滝山城1滝山城址下バス停付近より三の丸・二の丸・中の丸と攻め上るルート。車でどこまでいけるかわからなかったが、どこかに駐車場でもあるだろうと行って見る。しかし、城址の案内板の道は細い路地で入るとすぐに車両通行止めになっていた。
周囲は農園とアパートで勝手に車を止められそうもないので断念。別の攻め口を探す。滝山街道を16号方面にしばらく行くとまた城址の案内板があった。徐行で素通りしながら見ると今度は道も少し太い。そこから行くことにして、引き返して再突入。

ナビの本丸址からはかなり離れているが、道は滝山城2本丸方面にどんどん上っていっている。いけそうだと期待している瞬間、道はいきなり未舗装となり畦道のようにになってしまう。車一台が藪にボディーを擦りながらやっと通れる程度。しかもまだ雪も残りすごい轍。直結四駆にスタッドレスを履いている。泥雪や急坂は苦にはしないが、この悪路にロングホイールベースはたまらん。もう限界というところにちょっとしたスペースがあったので端に停めさせてもらう。

ここから徒歩で登る。やはり山岳戦に騎馬は無理のようだ。しばらく歩くと尾根道に出た。周囲に雪のある遊歩道を歩く滝山城3と看板があるので見てみる。
この尾根道を行くと本丸址に行くようだが、どのくらい歩くのかわからない。時間もかなりたってしまったし車も心配だ。しばらく歩いて桜の群生林まできたが、仕事に戻れなくなると困るのでここで断念して撤退する。

流石に関東屈指と言われる城郭を、昼飯の時間で落とすなどとは天下人にも出来ないことだ‥‥
帰りもぼこぼこ腹を打ちながらふもとに下りる。こちら方面には滝山城4翌日以降も来るので次の機会に備えて情報をとることにする。

第一次滝山城攻略失敗!


にほんブログ村   車ブログへ
にほんブ ログ村
 にほんブログ村 車ブログ ミニバンへ
にほんブログ村
 にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

スカイタワー西東京

市ヶ谷の通信塔 何かと東京スカイツリーが気になりだした今日この頃。
いつも引き合いに出していた“田無タワー”ことスカイタワー西東京。たまに通る新青梅街道や所沢街道もタワーは素通りで、信号待ちのときに見上げるくらいしかなかった。しかし今回仕事で武蔵村山方面に行くことになったので、ちょうどいい機会に寄り道してみた。

“スカイタワー西東京”。HPの受売りではマルチメディアタワー認証第一号の多目的電波塔として1989年に完成した。運営会社は株式会社田無タワー。そう、地元民がそう呼び、自分も愛称のつもりで呼んでいた呼称は運営会社名だったのである。
高さ地上195m。吊橋主塔も含めた塔としては全国第6位、東京都では第3位の高さを誇る。

東京で3番目?1番は当然東京タワーの333m。では2番はと言うと意外なところにあった。市ヶ谷の防衛省内にある通信塔‥‥正式名は知らない。国家の最重要機密??なのだろう‥‥
青梅街道に抜けるためよく通る靖国通りからそれを見ることが出来る。確かに高いアンテナがあるなぁ程度にしか見ていなかったが、ランキング田無タワーをみて仰天。全国第5位、220mもあったとは‥‥早朝の靖国通りにちょっと車を停めてワンショット。機密漏洩にはならないよねぇ。因みに、帰りも通ったのだが気付かず通り越してしまったので、ライトアップはされていないのだろう。きっと灯火管制なのだ?

市ヶ谷より1時間弱で田無(今は西東京市だ)に着く。北原の交差点を過ぎるとそれはいきなり眼下に飛び込んでくる。今回は裏道に入って初めて田無タワーを目前で見た。スクエアながらどこか仏塔の相輪を思わせるような雰囲気だ。晴天に良く映える。

自分にとって、このタワーの魅力はむしろ夜のライトアップにある。東京タワーのライトアップも当然綺麗だが、東京タワーは周囲が明るすぎて、遠目には存在感が薄い。田無タワーは周囲に高い建物が少なく、平原の中に忽然と現れた仏塔のごとき存在感がある。その光はまさに光背のような広がりを見せる。(ほめすぎか‥‥)
朝とは打って変ってその日の夜は吹雪のように雪が舞う天候となった。
帰り道、朝とは反対側の裏道に車を停めて、雪の中で撮影。田無タワー3雪と相俟って幻想的であった。

そういえば田無タワーのライトアップは天気によって色が変わると言う話だったが晴れの日でも、曇りの日でも自分が見るのは紫のライティングである。今日は雪が降ってきたのにいつもの色だ。今は1色だけなのかと思い、帰宅後HPで確認。
カラーは3色。翌日午前の天気予測によりカラーが変わるとのこと。つまり今まで自分がライティングを見た日の翌日午前中は“晴れ”と言うことだったのだ。これは面白い趣向である。

田無タワーは電波鉄塔として工作物となっており、一般の展望設備もなく施設内の立ち入りも出来ない。(無料駐車場まであるのにねぇ‥‥貸し会議室用か)
HPのライブカメラの映像は、都心の高層展望台からの風景とはまた別の風情がある。これを肉眼で見られないのは残念だ。
すでに高さでは建造中の東京スカイツリーに抜かされており、全国7位となって入賞を逃してしまうことが確実になったが、これからも田無のシンボルとして、退屈な夜の青梅街道のビューポイントとしてドライバーを癒してもらいと思う。ライトアップ








にほんブログ村   車ブログへ
にほんブ ログ村
 にほんブログ村 車ブログ ミニバンへ
にほんブログ村
にほんブログ村 その他生活ブログへ
にほんブログ村

聖徳太子

もうすぐボーナス。
今年はもらえるのか、業績悪いし、評価も悪いし。
今は何所でもほとんど現金支給というのはなくなってきているが、昔は聖徳太子様といえば非常に価値のあるありがたいお方だという認識があった。正直福沢諭吉様だとなんとなく有り難味が半減してしまう。
で、また思う。
聖徳太子は何故天皇になれなかった?
いろいろな論文や書籍があって、ある意味“邪馬台国は何所?”“王朝交代はあったか?”と同じくらい研究のネタになるようだ。世代交代の関係、血統争い、曽我氏との確執等々。関連本集めたら本屋が出来る?
しかし素人は単純に思う。“天皇になれなかったではく、はじめから天皇でないから聖徳太子になった”んじゃないのって。

聖徳太子の受売りの解説は不要だろう。ただし単純に国民的ヒーローと見れば似ているケースがもう2つある。ヤマトタケルと水戸黄門である。

ヤマトタケル。現在では非存在説が定説のようになっている。でもオグナ王(小碓命)またはそれに近い立場の皇族が存在していたはずだ。小碓命も景行天皇の王子で、あれだけの業績がありながら天皇にはなっていない。水戸黄門も徳川一族だが将軍になれる血筋ではない。実在の人物、徳川光圀公は大日本史の編纂に尽力した人物だが、もちろん印籠を持って日本中の悪人を懲らしめたわけではない。ただ徳川光圀公という人物がどのような経緯で水戸黄門になったかは、近世だけにかなり確証に近い原因は研究されている。

古事記のヤマトタケル。日本書紀の聖徳太子。そして講談の中の水戸黄門。時代の違い、仕掛けた人物の立場の違いはあるが、これらの人物はみな時の権力に対するアンチテーゼのような立場で描かれているように見える。天皇になれなかった、将軍になれなかったわけではなく、もともとそれだけの立場の人間ではなかったので、後世ヒーローにする格好のネタになっただけだと思う。聖徳太子は何故天皇にならなかったかではなく、聖徳太子のモデルは誰でどうゆう人物かの方がよほど興味はある。

中の暖 聖徳太子はいたか、いなかったか‥‥。
否!聖徳太子は今も自分の心の中で生きている!。お財布の中の暖かい温もりとして‥‥。

にほんブログ村 その他生活ブログへ
にほんブログ村

深川不動尊

 毎月28日はお不動さまの日。
カミサンの守り本尊が不動明王。誕生日が聖日百味祈願、つまりお不動さまの日なのである。久々にお不動さまの日に深川不動尊に行く。
 深川不動尊は
成田山新勝寺深川不動尊という。あの成田山の別院なのである。本堂は文久2年(1862年)建立とあるが、これは千葉の成田山に近い龍腹寺の本堂を昭和26年に移設したものだという。以前の本堂は空襲で消失している。
 この本堂も傷みが激しく、横に新本堂を建設にするらしく、以前御札場だったところは現在工事中なっている。

 深川不動尊は護摩焚きで有名である。実際に自分の護摩札を焚いてもらうのは年1回なのだが、時間があればよく本堂に上がっては護摩焚きに参る。いつも数珠を持ったお年寄り、念仏を唱えた信者が絶えない。
 そんな人々に混じって前のほうに座る。30分くらいの法要。信心深いわけではないが、何がいいのかというと護摩焚きの際の若い僧侶が叩き出す大太鼓の強烈なビートである。あの響きは心が洗われるというより、聴いているだけで何か心がスカッとしてくる。みくじ
 
 読経をヒーリング的に楽しむ人はいるが、ここの護摩焚きはロックビートのようにストレス発散になる。不信心であると叱られそうだが、これもお不動さまのお恵みである。今でもよくラップなんかをでかい音で流している車なんかに出くわすが、これを大音響で流しているほうがよっぽどノるぞ!。

 と、言うことで帰りがけに娘がおみくじを引く。普段くじ運悪いのに今回は大吉。学問→安心して勉学せよ!
 ゲームばっかしてないでもっと勉強してくれよ!
にほんブログ村 その他生活ブログへ
にほんブログ村

太田天神山古墳

 天神山古墳は誰の墓だろう。
10年以上前にそこを訪れ、まず考えたことである。 
それは太田市の市街地から少し外れたところにある。
 古墳といえば仁徳稜(今は大仙古墳と呼ぶのだが)、関東で言えば鉄剣の出土した稲荷山(埼玉古墳)がメジャーだが、大田天神山といっても、よほど古墳に興味のある人間でないと出てこない名前である。
 天神山古墳は墳丘長210m、二重の周壕を含むと東西290m南北350mにも及ぶ東国最大の超弩級墳墓である。墳丘長だけ見ても全国でも30位内に入る。ただしこれより大きな墳墓は大阪府・奈良県・岡山県にしかない。つまり天皇家と有力な血縁豪族の墳墓だけなのである。有名な埼玉古墳の稲荷山でさえ復元長117m、半分ほどの規模に過ぎない。以前訪れたときは石室の一部が斜面に露出していた。この石室も当時としては関東屈指の規模だという。


 群馬県一帯はかつて毛野の国といわれた東国屈指の大国であったという。100m級の大型墳墓も十数基現存し、多数の副葬品も出土されている。天神山古墳も毛野の大首長の墳墓とされている。
 書紀によれば毛野の国は崇神天皇の長子豊城入彦命を始祖とするとあるが、あくまでもヤマトによる併合を正当化する記録であり、毛野氏側もヤマトの中での地位向上のため進んで取り込んだものだろう。

 毛野氏に連なる名前は地方豪族にしてはかなり多くが知られている。唯一悪名を残された大首長小熊を除けば、ヤマトの中央官僚や将軍として東国や半島での活躍にその名が記されている。

 天神山古墳は5世紀中葉の建造とされる。以前は小熊の祖父か曽祖父のころのものと考えていたが、当時の世代継承から考えると更に数代前となりそうだ。時代的には応神天皇稜の時代に近いという。
 研究者によると荒田別・竹葉瀬・田道等が比定されるというが、あくまで文献と照らした可能性としてである。
 皇族稜に匹敵する規模の墳墓だから少なくとも記紀に何らかの名前を記された人物のものと思われるが、残念なことに磐井≒岩戸山というような決定的文献がない。

 天神山古墳は荒田別の墓なのか、それとも竹葉瀬あるいは田道のものか、またはまったくの別人を埋葬したものなのか。群馬に現存する大型墳墓、倉賀野浅間山・白石稲荷山などや、豪華な副葬品を出土し、今は失われた前橋天神山は誰の墓なのか、毛野国最後の大首長である上毛野君小熊の墓はどこなのか‥‥そんな思いを寄せながらまた再び群馬の古墳を巡りたいものだ。

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

坂本紀行随想録その3

坂本城門聖衆来迎寺は国道161号沿いにあった。ツアールート上にあったことと廃城となった坂本城の城門が移設されているというので立ち寄る。城門はイメージより小さかった。湖上の要塞というべき坂本城に巨大で堅固な城門は不要だったのか。なぜか森可成の墓があった。

国道は車が多く怖いので旧道から明智塚に向かう。地図には載っていないので電柱の住所を頼りに探す。途中で坂本城址の碑を発見。横のベンチで一休み。その後も発見できず、飛び込みで民家に訪問、道を尋ねる。そこのご主人と奥さん曰く、「すぐそばだけどあそこへいくのかね。あそこは界隈の人はちかよらないよ……。」
定期的に法要がおこなわれて隣接する家が管理してい
坂本城址の碑るらしいが、どうもいわくつきらしい。無理もない。謀反人の汚名を着せられ壮烈な最期を遂げた武士たちの怨念が宿っているのだ。とにかくいくだけ行ってみる。

明智塚は国道沿いにあり、こじんまりとしたよく手入れされた塚だった。何の変哲もないところだが先ほどの夫婦の物言いが脳裏に残り立ち入りを躊躇させた。そう、藤原の名を残す自分は地元ともいえる場所にある将門首塚にも近寄らない小心者である。興味のみで立ち入ることの恐れを感じ、外より丁寧に拝礼しその場を立ち去る。


遅めの昼飯は近隣のすき家で牛丼。せっかく大津まで来たのにさびしいがグルメツアーが目的ではない。仕事光秀公石像中のたちより並みの速さで昼食をとり、今は公園となっている坂本城址に立ち寄る。明智光秀公の石像がある。結構体格がいい。光秀公というと礼の肖像画のイメージが強いが、史書には大力無双の持ち主ともある。むしろこちらのほうが実像に近いのかもしれない。決戦3や戦国無双2の光秀キャラでは全くイメージが湧かない。この年でゲームマニアではないが、KOEIさんには大人にもやりがいのある光秀像を作ってもらいたいものだ。


日が傾いてきたので滋賀院・慈眼堂と矢継ぎ早に周り、レンタルサイクルを返却して比叡山ケーブル坂本駅にいく。ケーブルからロープウェイを経由して京都に戻りたいと思っていた。休日だが夕方近いせいか乗客は少ケーブル山頂なかった。ケーブルから見えた山の頂にそびえる東塔のなんとない違和感が印象的だった。延暦寺駅に着いたときはすでに15:30を回っていた。西塔や横川区域へはいけないので根本中堂のある東塔区域を見てまわる。

根本中堂には感動。さすが叡山、京の鬼門を守護するに相応しい仏閣だ。東塔も近くで見るとその荘厳さに息を呑む。1日の疲れも出たせいか広い境内をのんびりうろうろしているうちに閉山のアナウンスがなってしまったので帰ることにする。

愛娘に土産の一つも買っていこうと思い、お土産売り場を徘徊。でも結局いいものがなかった。最初の三井寺で買っておけばよかったと後悔。バスセンターに着いたのは17:00になっていた。すでに山頂延暦寺根本中堂行きのバスはなく、ついたバスが京都行き最終ということなので、ロープウェイは断念しバスで下山する。最後の斜陽に浮かぶ琵琶湖と大津の街がとても美しく印象的だった。三井寺と叡山以外はマイナーな史跡めぐりだったが、一人旅でこそできる有意義な1日であった。

 



2010年追加記載


2010年2月データを整理していたところ、当時の写真が出てきた

比叡山

ので後掲載。

ピンボケであるがやはり残っていた。但し松禅院や慈忍和尚廟などは撮ったはずなのにやはり見当たらない。不思議としかいえない。

‥‥リベンジせよとの仰せか‥‥

 


 

にほんブログ村 歴史ブログへ

にほんブログ村

読み込み中

クリックでキャンセルします

画像が存在しません

 

坂本紀行随想録その2

近江神宮前駅から坂本駅へ。170円、9分で900年。1分100年、100円で500年を一気に下る。

ガイドで見ていた駅前のレンタルサイクルへ。坂本は回る範囲が広いので自転車を使うことにした。先年に奈良明日香村を訪れた際にクロスバイクレンタルで山間の遺跡を結構楽しく回れた体験から、今回もクロスタイプかMTBにしようと思っていたが、なんとあったのはママチャリだけ。管理人さん曰く、坂本は斜面ばかりで自転車で回る人は少ないのだそうだ。明日香村だって山間なのに、観光者の層が違うのか、それとも絶対人数の違いか。とりあえず内装3段があったので半日レンタル。


まずは西教寺へ。しょっぱなから上り坂で脚に来る。西教寺は明智家の菩提寺で明智一族や光秀公の妻
熙子の墓がある。特に法要の日ではないのに一族の五輪塔の前には線香と花が手向けられていた。まずは順に参拝。正面右から最後熙子の墓がある.なぜか際立って小さい。光秀公の最期をまたずに、55万石の太守の妻としてなくなった熙子はある意味幸せであったろう。境内をぶらっと一回りして次の目的地に。次はいよいよ松禅院だ。

松禅院、よほど詳細な地図でもなければ載っていない。なぜここに行きたかったかというと、ここには光秀公が寄贈したといわれる石灯籠があるからだ。なぜそれが見たかったかというと寄贈されたのが慶長20年、1615年だ。お分かりであろう、光秀公が小栗栖で最期を遂げたのが1582年。この寄贈者光秀なる人物が全くの別人か、何者かの偽装でない限り、日向守光秀公は山崎の敗戦より生き延びていたことになるわけだ。つまり世間一般に言われている「光秀=天海」の物証のひとつになる。


長い谷間の上り道を松禅院に向かう。自転車を借りるとき、観光案内所も兼ねる
管理人さんに松禅院について聞いてみた。管理人さんはしばし考えた後、「飯室谷のところかな、あそこまで自転車は結構きついよ。それにあそこは普段閉まっていて入れたかなぁ」という感じだった。確かにマニアックな雑誌やブログにしか出てこないので、一般人がほいほい見にいけないところのような気はしていたが、ま、だめもとで行ってみようというところだった。長く細い山道で、さすがにいい加減くたびれたところにそれは突然現れた。

飯室不動堂。中世の昔なら本当に山奥の修験場みたいなところだ。しかし、さっきの情報と少し違う。線香の煙のようなものがたちこめ、大勢の人の気配がある。車も結構止めてありちょっとした観光スポットのような感じだ。目指す松禅院はこの奥にあるらしい。最期の急坂を自転車を押して登り、小さい広場に駐輪する。さて石灯籠はどこだろう。まずは目の前の鳥居(なぜお寺に鳥居?)をくぐり晴天の真っ昼間なのに薄暗く長い回廊を登る。一番奥になんとも古ぼけたちょっと不気味な廟のようなものがある。でもそれらしき石灯篭はない。そのまま戻っては失礼なのでとりあえず拝礼して戻る。(廟をよく見なかったが後に調べたら比叡山四大魔所の一つといわれる慈忍和尚廟だった。拝礼しておいてよかった。)

再度地図をみると、どうやら隣の仕切られたところが松禅院らしい。表に回ってみると門が開いていて読経が流れている。何か法要をしているようだ。門前をうろうろしていると人が入っていったのでついて入ってみた。その人は檀家らしく、玄関で挨拶をして坊の中に入っていった。玄関にはまだ住職さんらしき人がいたのですかさず捉まえてずばり聞いてみた。住職さん曰く、確かにここに光秀公が慶長20年に寄贈したといわれる石灯篭がある。元々慈忍和尚廟にあったものを保存のためにここに引き取った。しかし傷みがひどく一般公開にすると倒壊する恐れがあるのでご案内はできない。とのことだった。


あるといわれればやはり見たいのが人情だ。見るだけでもと何度か頼んだがだめであった。これ以上無理強いすると礼を逸すると思い、丁寧にお礼をし帰ろうとしたとき、逆に
住職さんが声をかけてくれた。お教えはできないが、せっかく着たのだから境内を自由に見て回っていいよ、と

あきらめた後なので面食らったが、せっかくのご好意に甘えることにした。境内をぶらぶらと歩いているうちに奥のほうに石灯篭があった。以前写真で見たものに酷似している。これか!このどこかに例の“慶長二十年二月十七日 奉寄進願主 光秀”と彫られていれば……。

しかし薄暗く苔むした石灯籠では目の前にしてくっついて見ないとわからない。ぼうっと周囲の景色と溶け込む石灯籠を眺めているうちに、ふと何かさっぱりした気分になった。これはこのままでいい。確認しないまま帰ることにした。目的は十分果たした。ご住職に再度お礼をし、飯室谷をあとにする。自転車で苦労して登った坂を下る痛快さは車やバイクでは絶対に味わえないものだ。日はまだある。ニュータウン中の並木道を湖畔に向かって駆け下りる。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

坂本紀行随想録その1

先日、TVで本能寺の変と明智光秀のことを放映していた。最近TV等で明智光秀や妻熙子のことがよく出てくるので、ふと記憶をたどって綴ってみたりしたくなった。


昨年のことになるが、京都出張の合間に近江坂本を訪れた。古代史ファンではあるが戦国時代もいささかミーハーなのである。特に戦国武将として興味があるのが
惟任日向守こと明智光秀公である。判官びいきといえばそれまでだが、その生涯からして何か気に掛かる人物だ。光秀公の全盛期から滅亡までの軌跡の残る坂本はぜひ訪れたかった。そして隣接する大津にはかつて大津宮が存在し、天智天皇や大友皇子縁の史跡も多い。大友皇子弘文天皇)も古代史の中にあっては興味をそそる人物であり、自分としては一石二鳥のロケーションでもあった。


大津・坂本でぜひ見たかったところが弘文天皇陵・大津京跡・坂本城址、そして
松禅院であった。

朝8時に湖西線大津京経由京阪で三井寺駅へ。大津へ来たのだから三井寺は見ておこう。琵琶湖疏水の隧道入り口を通り裏から三井寺(園城寺)へ向かう。琵琶湖疏水は灌漑や給水だけでなく、かつては近江から京都への水上輸送の動脈としても活用されていたと馬の首?いう。今はトンネルの中は船では通れないのだろうが、疏水くだりのツアーがあればぜひ参加したいものだ。

三井寺では観音堂や金堂等をまわる。残念ながら行った時点の金堂はまだ改修中であり、全容が見られなかったが、三井寺の名の由来である天智、天武、持統の三天皇の産湯に使われたと伝えられている井戸は見ることができた。

三井寺から歴史散歩定石の歴史博物館をさらりと見て弘文天皇陵へ。地図ではすぐだが、近道が実際には警察学校の敷地内を通っており、結局市役所正面から大きく迂回して警察学校のすぐ裏の弘文天皇稜へたどり着く。天智天皇が遷都し、大友皇子の二代の都が大津宮であったが、壬申の乱以降廃都となってしまった。大友皇子も壬申の乱で大海人皇子に敗れたことにより大海人皇子が天武天皇となった後に編纂された日本書紀の中では滅びるべくして滅びた皇子のように描かれているが、果たして勝者の歴史は本当であろうか。確かに血筋としては劣るものがあったのかもしれないが、天智天皇が実弟(一説には違うという説もあるが)大海人皇子をさしおいて後継者としたのは息子かわいさだけではないと思う。ある意味天智天皇が目指した天皇家と大津市国家のあるべき姿を理解し継続できる資質があると天智天皇が認めたからこそ後を託されたのだろう。

高き理想に向かい急進的・先進的過ぎたが故に時代から抹殺されたと思うとまさに悲劇のヒーローと思えてくる。単に大王位の争いだけなら、先手をとって6万の朝廷軍を組織した大友皇子が、僅か3千から進軍した大海人皇子に敗れるほうがよほどミステリーだ。実際に大海人軍を指揮した高市皇子天武天皇の長男、後の太政大臣で長屋親王の父)も魅力的な人物ではあるが、乱の進行を見ていると味方の陣営の中にすら大友皇子と大津京の理想を阻もうとする力が働いているように見えてならない。

感傷に浸りつつも次の予定地である大津宮跡を目指す。が、ちょっとその前に寄り道を……。


ガイドを見るとちょっと珍しい皇子山古墳前方後方墳の皇子山古墳が近くにある。古墳ファンとしてはやはり寄ってみないと……。皇子山古墳は閑静な住宅街の奥の小高い山頂にある。もっとも登ってみると古墳のす
ぐ裏にバイパスのICがあるのは興ざめだった。規模としては決して大きくはないが、琵琶湖を望む山頂のモニュメントは大津京以前にこの地を支配していた豪族の威勢を感じる。まあすぐ裏を車がびゅんびゅん走られたのでは気の毒ではあるが……。


さて、一気に山を下り大津京跡へと足を運ぶ。歴史博物館で情報を仕入れていたので期待はしていなかったが、本当に小さな区画だ。もちろん発掘されてい
るのは部分部分ではあるが、跡地からかつての内裏や都大路のイメージは浮かばない。僅か5年の都ではあるがやはりさびしさは禁じえない。しばらくそこで休憩(通り過ぎる近所の人は変なオヤジがいると思ったかな)

時間も昼に近づいてきた。近江神宮前駅から京阪で坂本駅に。2両編成の路面電車みたいな車体、駅としては僅か5区間だが、まさに170円で乗れるタイムマシーン。時代は一気に900年も下ってしまうのだ。いよいよ本命目的の光秀公縁の地めぐりへ……。

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村

読み込み中

クリックでキャンセルします

画像が存在しません

 

古墳考

 いつから古墳に興味を持ち出したか覚えていない。もう10年以上前になるか。
出張で関西・山陽・九州等にいった時期があり、合間を見ては古墳や遺跡を見て回った。造山古墳(墳丘長360m第4位)や三瀬丸山古墳(墳丘長318m第6位)は御陵墓指定もないので実際に墳丘にも登った。このクラスの古墳が畿内を中心に十数基あるのだからすごい。
 なぜ前方後円なる特異な形状の古墳がほぼ一斉に全国に発生したのか、ある意味邪馬台国と並ぶミステリーだ。日本は横並びの好きな国、長いものにはみんなで巻かれることを好む国なので、これはヤマト王権を本部とする倭国ボランタリー王国チェーンの看板のようなものだったのだろう。まれにこのボランタリーチェーンに加盟することを拒んだ者や脱退した者たちがこのチェーンに対抗し異型の墳墓を造ったりしたのだろうか。結構今の社会構造に重ねてみても面白い。
 東京に住んでいるので当然関東の古墳にも興味が出る。さすがに300mを超える超弩級墓はないが、一般に大型墳墓と呼ばれる100mを超える古墳は関東にも数十基ある。某番組で日本王国として取り上げられたさきたま古墳は有名だが、かつて毛野と呼ばれた群馬県にはその規模を遥かに凌ぐ大型古墳がいくつもある。中でも太田市にある天神山古墳は墳丘長210m、陵域の総長は360mとも言われる巨大古墳と呼んでもおかしくない規模だ。これより大きな古墳は大阪・奈良・岡山にしかない。ヤマトの王族や中央豪族、そして一時はヤマトに並ぶ国力を有したと言われる吉備の地だ。かつて九州6カ国を支配し、ヤマトと1年半に渡り死闘を繰り広げた筑紫の君磐井が生前築いたと言われる岩戸山でさえ天神山より2回りは小さい。日本王国はともかくとして、かつてヤマトと同盟を結び、関東全域に影響力を持ち関東以北にその勢力を広めていった大国毛野は確かにあったのだろう。
 じつは東京都心にも大型の古墳があることは、地元の人や古墳に興味のある人しか知らない。田園調布の玉川台古墳群はそれでもまだメジャーな方だが、東京で最も大きな古墳が東京タワーのすぐとなりにあるといったら、知らない人はえっと思うだろう。タワーのすぐ眼下だが首都高やモノレールからも見ることができる。
 芝丸山古墳と呼ばれる古墳は、調べると墳丘長
丸山古墳125m、古墳時代初期のものと言う。これはなかなかの規模だ。だが実際に訪れると芝公園の中の小高い台地のうえにあり、ごく普通の散歩コースになっている。立て札に気付かなければこれが古墳とは絶対わからない。墳丘と土台の識別もあいまいで数値ほどの規模は感じられない。
 しかし過去に思いをよせあらためて頂に立つと、当時は覆う樹木もなく、葺石で覆われていたであろうこの山頂のモニュメントは直下の古東京湾を墳丘頂上往来する船から一望できたに違いない。かつての権力者に敬意を表し、また永眠の地に足を踏み入れ荒らしたことを詫びるつもりで拝礼し芝公園をあとにする。
 古のこの地の王はどんな人物であったのか、毛野と同盟を結んで南武蔵に君臨したという説もある小杵一族に列なる者なのか、毛野・南武蔵の古墳の衰退にあわせたように出現する埼玉古墳群と記紀の記述を照らし合わせると興味は尽きない。1500年以上の昔にこの地に君臨し、この墳墓に永眠った支配者は自らの墓を囲むように乱立する摩天楼、墓丘の上を犬を連れて平和に散歩する人々、そしてかつての支配地であった今の東京をみてどう思うのだろうか。
にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村続きを読む
livedoor プロフィール

枯野

愛車紹介
1.PRESAGE U31
愛称KARANO号
  :いまや歴史遺産となりつつある3.5L/フルタイム四駆。最近は金欠でタコメーターしか見れなくなった。2002年モデル。

2.MR−4
  :GIANTのロングセラーフォールディングバイク。18年間コンパクトスポーツの頂点に君臨した名機。2010年モデル。FからSE擬き仕様にDIY。

3.SOMA SAGA『嵯峨』
  :米国ソーマファブリケーションズのツーリングフレームに格安パーツを買いあさって組み付けたグラベル風クロモリツーリングバイク。年式不明

4.ALPENCHALLENGE   AC02
  :レーサー志向の本格バイクを投入する『BMC』の珍しい26インチアルミバイク。ストックパーツを再編成して復活した我が家の軽量クロスバイク。2010年モデル。  
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

Archives
  • ライブドアブログ