KARANOがれーじ

KARANO 枯野 1.古事記に登場する仁徳天皇所有のハイスピードクルーザー。毎日灘波と淡路を往復し清水を宮に運んだ。 2.我が愛車のニックネーム。毎週我が家とスーパーを往復しPBの飲料水を運んでいる。 3.枯野さん(ハンドルネーム)。 鍵穴型古墳マニア。持病持ちポタサイクリスト。

歴史散策

唐沢山攻略

絵図野の国分寺跡・国庁跡を見た帰り、少し足を延ばして唐沢山城址を訪れる。
唐沢山城址は現在唐沢山神社となっている。唐沢山神社のご神体は「従四位下・下野武蔵守・鎮守府将軍『藤原秀郷公』」である。百足退治の逸話が有名だが、何よりの功績は天慶の乱を鎮圧したことである。
唐沢山城はこの藤原秀郷公の築城といわれている。本丸は標高241mの唐沢山山頂から尾根を利用して展開され、自然地形を有効活用した縄張りは『関東7名城』の一つに謳われている。

栃本口から上るルートはレストハウスのある駐車場まで1500m、標高差136m、平均斜度8.9度。乗り慣れたローディーさんなら何でもないところだろうが、親父の脚ではまずドロップアウトだ。車で正解。

ヤマネコ?ストハウス周辺にはなぜか猫が多い。神社の沿革にも城の歴史にも猫の話はないので、別の理由で住み着いたのだろう。







天狗岩天狗岩入口城門跡のます形を抜けると、すぐに『天狗岩』という案内板がある。
石段を登っていくと目の前の視界が急に開いて見晴らしの良い崖っぷちに出る。ここにはかつて物見櫓があったそうだ。






南麓遠望西側麓崖からの風景。
櫓はさらに高くなっていて、遮る樹木もなかっただろうから、麓の動きが手に取るように見えただろう。






ます車井戸大炊井形から少しはいると『大炊井』という巨大な井戸がある。こんな天険にこれだけの水量を確保できる井戸があるとは驚きだ。
唐沢山城には大炊井のほかに井戸がもう1か所ある。本丸の東側の急斜面の途中に『車井戸』という深い井戸がある。深さは25m以上あるそうだ。底は見えず、現在水があるのかもわからなかった。




二の丸神楽殿四つ目掘井の先にある『四つ目掘』今
はその面影をとどめないが当時は城内最大の空堀だったようだ。
三の丸・二の丸と登っていったところに『神楽殿』がある。






二の唐沢山神社山門丸から表御殿跡を抜けると本殿に続く石段がある。
神門をくぐると本丸跡の唐沢山神社社殿がある。
拝殿と本殿がつながっており、かなり大きく奥が深い。
お参りをして本丸制覇。
社務所から裏手を通ってもとのレストハウス駐車場にもどる。

レストハウスの下に、『足尾山神社』という小さな祠がある。
足腰の不調に悩んでいる方はぜひ参拝をお勧めする。親父もご利益があるかどうかは今後の精進だが‥‥

下毛野・唐沢山ルート日の走行250km 久々の長ドライブであった。


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下毛野再び

発掘現場その後琵琶塚古墳下野古墳めぐりで見逃した吾妻古墳のリベンジを兼ねて、再び下毛野へ。
今回は前回とルートがダブるため自転車は積んでいない。
6:30AMに出発して一般道で9:00過ぎに琵琶塚に到着。順調である。
琵琶塚に寄ったのは、昨年末の発掘現場がどうなっているかを見るためである。前方部の周溝の発掘部分は埋戻しが進んでいるようだ。



『天国見山後円部頂上?謎の古墳擬き平の丘公園』の駐車場に車を止めると、すぐに復元円墳のような築山が見える。航空写真で見ると前方後円墳のように見える謎の築山。
国見山というらしい。
頂上には『銭成石』といい、この周囲の発掘で出てきた古銭が埋めてあるとのことである。




伝紫式部の墓上からI前方後円型見ると確かに前方後円墳の形にはなっているが前方部はペチャンコ。子供の遊び場にはなるだろうが、この形に意味を持たせるなら前方部もきちんと盛土してもらいたい。
栃木県埋蔵文化財センターに行く途中に『紫式部の墓』なる立札を発見。行ってみる。
小野小町が茨城出身というのはその筋では有名だが、紫式部も東国に関係する人?。『紫式部の墓』とは書いてあるが実際は無関係のようである。


回り栃木県埋蔵文化センター道をしたが、時間は10:00を回ったので『栃木県埋蔵文化財センター』に行く。HPでも管内の様子がよくわからない施設だが、何か常設展示でもらるのだろうと期待していったが、何と休館であった。







展示室しもつけ風土記の丘資料館念だが仕方ないので、早々に道路の向かい側にある、『しもつけ風土記の丘資料館』に行く。
ここは開館しており常設展示場もある。展示場内は撮影禁止になっているのでロビーから一枚。
下毛野の古墳や埴輪遺跡分布など、重宝な情報が入手できたが、下毛野氏と直接かかわる資料は見つけられなかった。



甲塚古墳下野国分寺跡2回はさっと1枚写真を撮っただけの下野国分寺跡。跡だけではだだっ広いだけで実感わかないね。
国分寺横にある『甲塚古墳』。掘削や開発で原型が大きく変わっている。
小円墳かと思っていたら墳丘長80m以上の前方後円墳であった。多くの出土物があり、先ほどの『しもつけ風土記の丘資料館』にも展示されていた。




後円部より吾妻古墳天平の丘公園』を後にして、本命の『吾妻古墳』に向かう。車だと5分もかからない。
工業団地に挟まれた後円部側の林の一角に車を止めると、古墳の案内板のところまでは歩いてすぐだ。しかし案内板の地点から見える吾妻古墳に、「県下最大」という期待感は関東大震災時の浅草十二階のように見事に折れてしまった。
琵琶塚・摩利支天どころか茶臼山より小さいイメージだ。後円部頂上から前方部を望む。頂上部も狭く、130m級の古墳とは思えない。

周溝底より後円部石室痕穴式石室は前方部の前面にあるという珍しいレイアウトの吾妻古墳。石室部分は発掘で盛土が崩落している。
墳丘の麓から撮ったようなアングルだが、ここは一段目墳丘の中央であり、石室がつくられていたのは二段目に当たる。
一段目が低く広いテラス状になっている『下野型前方後円墳』の終末型ともいうべき吾妻古墳の巨大さを実感するには、広域な周溝底を周回するのがよい。総全長160mを超える墓域の周溝底から見上げる墳丘は流石圧巻である。
繰り返すが墳丘長127mは県下最大。現存する下毛野では最大の前方後円墳である。
次に壬生歴史民俗資料館、下毛野氏の末裔ともいわれる壬生氏の本拠である壬生町の『歴史民俗資料館』に行く。壬生町は大型古墳も多く、吾妻古墳も一部が壬生町に属しているため、発掘された石室天井石や玄門石などが野外展示されている。
資料館は壬生城址公園の中にある。資料館には古墳時代の出土品や関連資料があるものと期待したが、展示場には『鳥居元忠』のイベント展示しかなかった。壬生藩城主が鳥居一族だからだろうか、井伊直虎ブームにあやかってか。





吾妻古墳玄門石石室天井石壬生といったらやはりせめて壬生氏だと思うのだが、ここも期待外れであった。場外展示されている吾妻古墳の石室天井石や玄門石を見て、かつての壬生城跡石垣や堀を回って城址公園を後にする。






国庁跡前殿下野国庁跡後に下毛野古墳めぐりで行き残した最後のミッション、下野国庁跡を訪れる。
車から出たとたん、肥やしの香り!が世界を包み込む。
ここもサッカーができるくらいの広い敷地に、復元された『前殿』がポツンとあるだけ。これだけおおっぴろげだと前殿の中に自販機やベンチ、ポスターなどがないことのほうが違和感を覚えるくらいである。手間をかけて忠実に再現していることはわかるが、ここといい、国分寺跡といいもう少しインパクトが欲しい気がする。

資料館より日光連山を望む下野国庁跡資料館地内に資料館があるので立ち寄る。ここでは発掘調査された国庁の全容や、当時の暮らし、官職の職務などの資料が展示されている。ここは写真撮影OKとのことだ。
資料館より雪をかぶった日光連山が見える。桜の時期になるとこの辺の史跡や歴史公園なども様相が一変し、多くの人々で賑わうのだろう。




吾妻下野国庁跡にて古墳を見たことで、関東全域の100m級以上の古墳は残すところ、最大最強の大国毛野の本拠地、前橋・高崎・藤岡・伊勢崎の「合併するのしないの」地域を残すのみとなった。ここは関東でも有数の大型古墳密集地域である。
支配権を伴う力関係は今も昔もあまり変わっていないようである。



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加瀬山(消失古墳ライド再び)


神奈川県には大型古墳がないからつまらないというイメージを僅かながら変えたのは、先年90m級の逗子長柄桜山古墳をライドしてからである。探訪基準の100m以上のものはないが、神奈川県にも70〜90m級のものがいくつかある、近隣サイクル古墳探訪としては最後の宝庫もである。
今回はぐっと近い川崎の加瀬白山古墳に行く。

R1多摩川大橋を渡る。
新川方面R1多摩川大橋川は関東でも十指に入る大河川であるが国境をなしてはいない。対岸の川崎市も律令国制では武蔵国である。
この大河川をもってしても国を分かつ関とはなっていないことを考えると、武蔵・下総国界だった古利根川・古隅田川などは当時どれだけの大河だったかうかがい知れる。
新川の高層ビル群の後ろに目指す加瀬山台地がある。



橋をリバーサイドカフェ渡ったR1の上流側に『多摩川交流センター』なるものががあった。建物右側は『リバーサイドカフェ』なる喫茶コーナーになっていた。今日はあいにく腹の調子が悪く。コーヒーのリスクが高いので断念。捲土重来を期す。
今日のコンディションにぴったりの『ガス橋通り』を排ガスを放出しながら突き進む。






『加加瀬山瀬白山古墳』を含む『夢見ヶ崎古墳群』があるのは通称『加瀬山』。多摩丘陵より続く下末吉台地の最突端にあり、矢上川で他の台地と寸断されているため独立峰のように見える。
川崎の『ギアナ高地』と呼ばれているかは定かではない‥‥。




動物公園2動物公園地上部は動物公園になっていた。
駐車場も無料、入園料もなし。近隣の子供連れには絶好のプレイスポットだ。







浅間神社くつかの加瀬山3号墳寺社があったが、小高い盛土の上に鎮座しており、これがみな古墳になっている。
麓や中腹にも古墳が点在しており、3号墳は石室が修復保管されていた。






天照皇大神宮2照皇天照皇大神宮大神宮でお参り。ここも円墳の上に社殿が鎮座している。








加瀬白山古墳的の展望台『加瀬白山古墳』は台地の西側中腹あったとされる。「される」というのは、『加瀬白山古墳』を含む周辺の台地は開削のため消失しているからである。
富士見展望台の看板には西側の森が白山古墳跡との掲示。
かつてはあの森まで台地が緩やかに伸びていたのか。




消失部分加瀬白山古墳下りて森の周囲を回る。墳丘長87mの古墳は県下でも最大級に当たるが、後円部をわずかに残し、前方部はほぼ開削されている状態のようだ。
勿論史跡として整備されているでもなし、私有地のため立ち入りもできない。
これが古墳跡かは判断しずらい。この小山が白山古墳としているのは富士見展望台の案内板だけで、他の資料では完全に現存していないとか、位置も100m以上東の白山幼稚園周辺であるとされているからだ。



加瀬山周辺古地図れ以上の侵入はできないので、
この付近でもう一つ、同時期に消失したという観音松古墳跡地に行ってみる。
現存していた時代の地図で見ると、古墳は現在の矢上小学校の校舎から慶大グランド辺りにあたる。






矢上川上川の観音松古墳跡地2遊歩道に沿って丘の北側に回る。
矢上川は思ったより自然っぽい川で、市街地の河川ではあるが、イメージよりきれいであった。
しかし、50儖幣紊呂△蹐Ω颪侶伽犬呂い辰燭い覆鵑澄?。神社の池のようにあふれかえっているぞ。




新幹線岸へ観音松古墳跡地渡ると、台地北面の全体像がとらえられる。
切り立った台地の高さは、高架線を走る新幹線がそのままトンネルに入ってしまう程だ。
県下では最も古い部類とされる軸長90mの『観音松古墳』はこの台地の南東部にあったようだ。
こちらは名前の由来となった観音松とともに完全に消失したしまっている。夢見ヶ崎古墳群とは1kmも離れていない。両古墳は不可分の関係にあったのだろう。

多摩川台りは綱島街道から丸子橋を渡る。
丸子橋からは多摩川台古墳群が見える。ここには107mの亀甲山古墳・97mの宝来山古墳はじめ多くの古墳が現存する。
夢見ヶ崎古墳群とは、多摩川低地を挟んで対峙する関係となる。武蔵国造の乱以前は、武蔵国南部の豪族がその地位にあったという。両古墳群の盟主は同族だったのか、それとも敵対勢力だったのか。





五反無名古墳やっぱ東京タワー田でR1に合流し東京タワー下を通る。
タワー下、増上寺裏手にも消失古墳(史跡指定はされている)がある。全長125mの芝丸山古墳と相似関係にあり、前方部は駐車場となっており後円部は墓地として開削されている。古墳としては100m級の大型古墳であったと思われる。





消失古墳日の走行 64km
古墳を実体験することはできなかったが、在りし日の威容や相関関係を想像しながらのツアーは面白かった。


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たまにまじめな話

『外第五福竜丸2相会議』が広島で開催され、各国外相が原爆ドームを訪れたとか、『伊勢志摩サミット』で小浜さん??が広島に行くとか、何かと『非核』が話題になっている。
だからというわけではないが、最も身近な核のメモリアル、夢の島の『第五福竜丸展示館』に行ってみる。
休日には多くの人で賑わう夢の島公園。
華やかな熱帯植物園の裏手に、木々に覆われひっそり竚む展示館は、唯一の被爆国でありながら、核の恐怖と怒りを声高らかに唱えない日本を象徴している感すらある。




『第第五福竜丸5第五福竜丸3福竜丸』。この名前が脳裏に閃くのは、多分おやじの年代以前の世代の方々だろう。もちろんオヤジが生まれる以前の事件である。
まだ広島・長崎の記憶が癒えない日本人に、再び核の洗礼として当時大きな話題となり、同年封切りの『ゴジラ』誕生のきっかけとなり、『美女と液体人間』の被爆マグロ漁船そのものと言える『第五福竜丸』。




このよう第五福竜丸6に日本全土が注目した船であるから、そのままメモリアルとして保存されたかというとそうではない。
被爆後も練習船として13年間現役で使われた末廃船となり、現在保存されている夢の島に人知れず放置された。
朽ち果てた廃船が『第五福竜丸』と判明し、今の展示館に保存されたのは1976年になってからである。

資料館は本船の保存展示の他に、ビキニ環礁の水爆実験の写真やパネル。当時の報道記事や乗組員の資料当の展示がある。



第五福竜丸7第五福竜丸9示館の外には被爆から半年後に亡くなられた久保山無線長の記念碑があり、「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という遺言が刻まれている。
後に無線長の死因は被爆とは直接関係ないという医学者の見解も出されているが、日本人としては、やはり死の灰の洗礼、水爆の被害者として脳裏を離れない。
また、展示館の敷地の隅には、築地から移植されたという『マグロ塚』がある。『原子マグロ』として遠洋漁業のマグロが一斉に廃棄穴埋めにされた。今で言う風評被害の先駆けである。
マグロ塚は食物連鎖の摂理に殉じられなかった魚たちへの鎮魂碑か、あるいは今でも風評という愚行を続ける愚かな人間への戒めの碑か。

第五福竜丸8示館正面には、別の船に移植された後、沈没により海底に没した『第五福竜丸』のエンジンが新たに引き上げられ保存展示されている。
その当時は、家の車と変わらない出力のエンジン。行楽地の遊覧船より小さな木造船体で往復10,000kmもの長征をしていたことになる。





非核兵器地帯マップ示場の最後のパネルは『非核兵器地帯』マップである。憤りに近いものすら感じるのだが、そのマップの中央にある日本は『非核兵器地帯』に入っていない。本来比較兵器地帯の盟主になるべき国家が、その宣言、条約締結すらしていない。兵器だけでなく全ての核を放棄している国々も多い。

広島・長崎に次ぐ第三の核の犠牲がありながら、唯一の被爆国である日本は、『第四の核の犠牲』を出した。3.11の福島第一原発のメルトダウンである。しかもこれは外から受けた加害的被害ではなく、自らが造り招いた被害である。しかもこれだけの洗礼を受けながら、日本は核の脅威を除くどころか意図的に再び繰り返そうとしている。これだけ愚かな国がほかにあろうか‥‥

人は第五福竜丸4自己の都合により、人災と天災を使い分ける。人は福島第一原発の惨劇を『人災』だという。それはある意味万能でない人間への戒めにもなる。但し為政者を含めた多く人間が、人間の過ちならば新たな枠組みで防ぐことが出来るという奢りの狂信者になっている。
天災による核被害は想定外である。だから想定外に対応する手段は、原発を動かさないこと、造らないことしかない。しかし、それを人災にしてしまったことで、規制と運用の強化で再発が防げるという、最も都合の良い愚行を平然とやってのけようとする。
京都議定書の目標遵守は重要である。産業界の競争力低下やエネルギー自給体制確率は確かに日本の最重要課題である。だが第五・第六の核の洗礼は、それらと比較をしていいレベルのものではない。

広島桜・長崎を繰り返してならないと叫ぶ為政者はどの面下げて福島は繰り返してもいいというのだろうか。
「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」という久保山無線長の言葉は、それから60年後に平和利用の名のもとに転用された核により無慈悲にも破られた。そしてそれはこのつぎも、そのまた次も破られることが前提になっている。
第五福竜丸は後世の日本人に何を訴えているのか。



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武蔵府中熊野神社古墳

熊野神社用で昭島へ行ったので、帰りに府中市の『武蔵府中熊野神社古墳』に立ち寄る。
甲州街道沿いにあり、立ち寄るのも便利だが、神社には駐車場がない。車で一回りすると、北側の道路にコインパーキングがあった。

『武蔵府中熊野神社古墳』。1辺の大きさが32mある。単独で訪れる古墳は基本的に100m以上と決めているおやじにしては、珍しく小振りな古墳である。



武蔵府中熊野神社古墳かし、この古墳、訪れるに値する大きな特徴が、全国でも珍しい『上円下方墳』という形状の古墳としては最大のものだからである。1辺32mと書いたが、3段構築の下段・中段が方墳であり、上段は直径16mの円墳となっている。
築造は7世紀中葉とのことで、古墳としては終末期のもので、天武天皇の時代にあたる。
南側に石室入口の扉があるが、石室は補強処置を施され、埋め戻されている。
神社の参道の横に、展示館と石室のレプリカがつくられている。




展示館横のヘルメット着用石室レプリ地下鉄入口じゃないカ。レプリカだけどヘルメット着用で、懐中電灯で入るのだ。
入口は狭いが、中は意外と広い。明治初めまでは石室に自由に入れていたようで、ほとんど盗掘で失ったようだ。その後石室が崩壊して、古墳であることが長く忘れ去られていたようだ。発掘調査により、鞘尻金具やガラス玉などが発見されている。




展示館内室は鞘尻金具発掘位置3室分かれている。同時期につくられた行田市の八幡山古墳(円墳80m)の巨大石室には及ばないが、奥の石室は大人が数人立ったままはいれる広さである。
横の展示室は、発掘前の状態や発掘・復元作業の記録が展示されている。
本格的発掘調査・復元作業が行われたのは新しく、この10年くらいの間である。




熊野神社古墳北側野神社古墳がつくられた後8世紀初頭に府中市に『武蔵国府』がおかれる。この時代、国造制はほとんど消滅するが、まだ完全な中央集権にはなっておらず、国司が元の国造などの有力豪族を郡司として任命し、地方豪族の権力が継承されている時代だ。
大型古墳がほとんど造られなくなるこの時代に、上円下方墳では武蔵国最大規模となる熊野神社古墳の被葬者は、この地域の郡司としてかなりの権力を持った豪族であったと推測されるが、残念ながら、記録がかなり進んできた時代でも、残された文献から被葬者を割り出すことはできないようだ。



古墳全景(西側)世紀には武蔵国の国造は荏原・橘樹の豪族が任じられていたが、5〜6世紀には、埼玉周辺の豪族に権力が移行していく。しかし7世紀初頭には、さきたま古墳群も終焉を迎え、この時点では、権力は多磨の豪族に移っていたのか。もし笠原一族が権力を掌握し続けていたら、武蔵国府は熊谷か行田周辺におかれていたはずだ。
太田天神山を見たばかりだ。大きさにおいては比べようもない規模だが、葺石によって整然と再生された独特の形状は、この時代の武蔵国最大級の古墳として、異彩を放つ存在である。




武蔵府中熊野神社古墳近所に、〇〇クリー国立店や〇’〇ロード府中多摩川店などがあるので、さらに寄り道して、自転車パーツを物色して帰る。(こちらがメインじゃないぞ!?)


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若王子古墳〜のぼうの城めぐり番外

トランジットセブンさて、丸墓山の三成本陣から忍城を望んで感慨に浸ったあと、時間があるので小針沼周辺をポタすることにした。
別の目的で、娘に借用して車に積みっぱなしだったトランジットセブンが出動する。TS−7でポタするのは久々だ。
稲荷山古墳きたま古墳群は昨年夏に一泊輪行で来ているので今回は間引きする。今回のメインスポットは若王子古墳と小針沼。いまはどちらも存在していない。
若王子古墳と、昨年訪れた石舞台が残る八幡山古墳、そして再生された稲荷山の前方部はともに、かつてこの付近に存在した『小針沼』と呼ばれた大きな湖沼の埋め立てのため消失した。
古代蓮の里若王子古墳』、稲荷山古墳から東に900mほどのところに存在した。墳丘長95m、後円部後7.5mの大型古墳だ。稲荷山から見ても何もない。そばに行けば看板くらいはあるだろう。
まず埋め立てられた小針沼の上に建てられた『古代蓮の里』に行って、昼飯と古代蓮会館で情報収集。ついでに展望タワーから景色を眺める。
タワーより行田方面展望つてこの付近は湖沼と湿地帯が続く風景だったのだろう。水面は蓮の葉に覆い尽くされていただろう。忍城も、そのような湖沼と湿地帯を生かして縄張りされたのだろう。地上50mの展望台からさきたま古墳群方面を望む。ここの50mはすごい迫力だ。スカイツリーの350mに匹敵する?展望だ。昭和初期までこの手前の水田地帯は小針沼と言われた沼地であった。資料を基に若王子古墳があった場所を訪れる。若王子古墳址広い田園。何もない。看板も石碑もない。
忍城攻めの至上命題とも言える、水攻めの土塁造りにより、幾多の古墳が消失したであろうか。
まさに斬るか斬られるかの時代に、それでも残った数多の古墳を、何の躊躇もなく消し去る昭和初期とは、やはり戦国と変わらない時代だったのだろうか。

白山古墳りに『白山姫古墳』と『真名板高山古墳』に足を伸ばす。『白山姫古墳』は直径50mの円墳で、石室板が露出しており、かなり削られている。八幡山古墳との関係を見てもかなり大規模な石室があるように思われるが、祟りを恐れて本格調査はされていないと言う。小針沼に近い位置で開削を免れているのは、この言い伝えによるものなのか?

真名板高山古墳後に訪れたのは『真名板高山古墳』。さきたま古墳の駐車場から東北東に5kmほど走ったところにある。薬師堂の境内にある古墳は、こじんまりした全長90mほどの古墳であるが、築造当時は双子山古墳と同規模の県下有数の大古墳であったことが掘削調査等で明らかになったそうだ。

今回は久々のトランジットポタとなった。田んぼのあぜ道や砂利の土手道走行が多かったが、ふわふわのサスとマキシスDTHの組合せは快適であり、2つ折りだけで車のトランクに積めてしまう手軽さは、まさに『transit』のネーミング冥利であった。

本日の走行‥‥メーターがなかった。たぶん13〜15kmくらい。

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のぼうの城めぐり

所用の帰りを利用して行田に行く。
今を時めく『のぼうの城』の舞台となった忍城を6年ぶりに観光する。
11月初頭に封切られた『のぼうの城』をみて、改めて忍城を見たくなったのでちょうどよい機会だった。
映画を見ること自体9年ぶりだ。9年前に見たのは『陰陽師』。野村萬斎の熱烈ファンというわけではないが、この人が主演ならちょっと変わって面白いだろうという理由だ。まあ、ジョニーデップの映画を見るのと同じ感覚である。
行田の街は『のぼうの城』のポスターで埋め尽くされている。平日にもかかわらず人の多いのはやはりこの小説と映画の効果だろう。
成田氏の居城であった忍忍城の鐘忍城本丸は、現在の『行田市郷土博物館』周辺を本丸として沼と水路に囲まれた、まさに『浮城』だったようである。
まずは郷土博物館に立ち寄る。郷土博物館には復元された御三階櫓や指定史跡の鐘楼などがある。
「忍城今昔地図」(博物館にて販売)によると博物館の裏手の駐車場辺りが本丸の中心だったようだ。

忍城御三階櫓料館に隣接する、御三階櫓。これは当然のぼうさまの時代のものではない、成田氏の忍城開城後、50年近く経った阿部氏の時代のレプリカである。掘割はあるものの『浮城』のイメージはない。
郷土博物館より1km弱走ったところに『水城公園』という池と水路に囲まれた静かな公園がある。忍城今昔地図を見ると、ここが城を囲む湖沼の最南端の名残のようだ。現在の行田市役所・産業文化会館・法務局・コミニュティセンターなど、市の中心的施設は全てかつての湖沼の上に建てられていることになる。
水城公園産に買った『城絵図と忍城』の冊子をみると、年代ごとに埋め立てや城下の拡大はあるものの、廃藩置県当初まで浮城の縄張は保たれていたようだ。


さて、守る側だけでなく、寄せ手側の遺構も残っているので行ってみる。
石田堤1せ手の総大将、治部少輔石田三成が水攻めのために築いた、通称『石田堤』が現存しているので見に行く。
現存する『石田堤』は水上公園より南南東に4kmほど走ったところにある。
この堤の頂に立っても、これで城を水攻めにできるとは到底思えない。
物語では、この長大な堤を1週間でつくり、城方に心を寄せる農民によって破壊される、ドラマティックな演出だが、実のところは城を水没させる高さや長さに到っていなかった結果だろう。秀吉が水攻めを指示したとも言われているが、本当に水攻めすると言うより、財力を見せ付けての長大な堤の建設により、城方の士気を挫くことが狙いだったろう。如何に要害であろうと、10倍の戦力なら正攻法で落とせると考えるのが普通である。
もともと洪水のメッカに築かれた城なのだから、これくらいの水没は何度も経験しているだろう石田堤
石田堤2攻めの失敗により、三成は戦下手のレッテルを貼られる。おやじには愚将三成よりも、上司に自分の本意に反したやり方の無理難題を押し付けられた挙句、失敗して周囲からブーイングをうける現場の責任者(誰のこと??)の姿が痛々しく浮かんでくる。
それにしても節操のないナンバーモザイクである。

本陣から浮城を望む後は丸墓山にのぼり、寄せ手の本陣から忍城を望む。
映画ではCGにより、本陣から望む湖沼に囲まれた、見事な城の全景が再現されている。
忍城を囲む湖沼に限らず、かつての関東平野は一面の湿地帯と湖沼群が存在した。あのCGのような光景がいたるところで見られたのだろう。

さて、さきたま古墳に来たので、さらに1000年時代をさかのぼることにする。


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越中2時間の旅4 帰雲城探索

帰雲城址月13日、帰雲山大崩壊地2午前中に家族を別の親類のあいさつ回りに送る。また昼飯まで2時間少々の空き時間。
もう20年近く前に一度通りすがりに立ち寄り印象に残っている、これまたマイナーな観光スポットにいく。
帰雲城址。「かえりくも」とよむ。この付近を4代にわたり支配した豪族内ヶ島氏の居城だ。
白川郷までは東海北陸道を利用すると1時間も掛からないが、白川郷で渋滞に巻き込まれる。世界遺産になったこともあり観光客が凄い。
帰雲山大崩壊地帰雲城址2かし、おやじにとっては世界遺産以上の歴史遺産がそのすぐ先にある。
白川郷の先の庄川をせき止めた鳩谷ダムのダム湖が途切れる辺りから、帰雲山の荒々しい大崩壊の傷跡が姿を見せる。
城址はその大崩壊地を正面に望む庄川対岸にある。もっとも、帰雲城址1城址ではなく「埋没地」の看板‥‥戦国末期の天正大地震による帰雲山の山体崩壊で発生した大地すべりにより、城と城下の武家屋敷もろとも、厚さ数十mの土石流に飲まれてしまったらしい。
かつてこの辺は深い渓谷を為していたらしいが、山体崩壊で谷は埋め尽くされ盆地状になったという。採石場が多いのが印象的だ。

さて、保木脇集落はずれ帰雲城下は残り時間の少ない中、もう一箇所見ておきたい場所は、埋没地点の碑から1kmも走らないところにある、保木脇集落のはずれ。
弓が洞谷と呼ばれている入口だ。
かつてこの谷の上流、三方崩山の中腹が「帰雲」と呼ばれていたという。
もう一つの帰雲城2もう一つの帰雲城方崩山も、天正大地震で数箇所の山体崩壊を起こしている。
この山の麓周辺に帰雲城があったと指摘する研究家もいるので、是非その場所も見ておきたかった。
こちらは麓から見ると軟斜面で、大きな崩壊地跡が見受けられないので印象は薄い。道があり車で登れそうだが、工事中のため一般車制限がされていた。

富山岐阜県境路は白川郷で高速に乗らず、五箇山まで国道で行く。富山県と岐阜県の境が庄川に置かれている部分があり、橋を渡るたびに県が変わる不思議な場所がある。
川沿いの狭い盆地には両側に小集落があり、親類が川を挟んで住んでいるケースが多い。
ここでは川向こうの親戚は他県人ということになる。複雑である。
帰雲城探索所有時間はとんぼ返りで2時間10分。これも白川郷での渋滞がなければほぼ2時間也。

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PS
帰雲城には内ヶ島氏を支えた多くの財宝があったとされている。
これも城と城主、多くの家人とともに数十mもの分厚い土石流に埋没してしまった。
一説には砂金ではないかと推測されるが、真偽の程は不明である。
改めて、合掌

越中2時間の旅3 王塚古墳

王塚古墳3王塚古墳1参から戻って、晩飯まで2時間弱。
門外漢のおやじは、次の散策場所を探す。
宿泊先からそう遠くないところに古墳があるのでいってみる。
『王塚古墳』。「かんぽの宿富山」に隣接する前方後方墳で、墳丘長は58m(資料では62m)。国の史跡に指定されている。王塚古墳後方部に近寄ると四角であることがわかるが、保存状態はあまりよいとはいえない。冷房装置なのか、かんぽの宿から巨大なファンの風が吹いている。
「王塚」というのは、一品親王『仏性上人』を埋葬した塚という伝承からついた名前だそうだが、仏性上人は6世紀末から7世紀の人物であろうから、古墳時代前期の築造とされる古墳とは時代が合わない。
仏性上人の素性についてはひとまず置いといて、王塚古墳から15分ほど公園内を歩いて次の古墳である『勅使塚古墳』に向かう。
『勅王塚古墳5王塚古墳4使塚古墳』は富山県最古の前方後方墳とされ、墳丘長は66mと王塚古墳よりも大きい。
県内最大の古墳が100mそこそこなので、この値は県下でも有数の大きさだ。
富山県は前方後方墳や四隅突出型墳墓が多い。ヤマトと距離を置いていたのだろうか。

そういえば、この付近には皇祖皇太神宮というものがあるらしい。
宇宙創世記よりこの地にあって、全宇宙の中心であり(富山県がビッグバンの中心だったのか??)、かつては神通川沿いに巨大神殿があったという。架空とされる歴代天皇もここで即位し、モーゼ・キリスト・マホメッド・仏陀という錚々たるメンバーがみな富山に来て修行をしたという。謎の古文書武『竹内文書』に描かれているとか??
『竹内文書』といえば戸来村のキリストの墓で有名な『武内巨麿』の公開した秘書とされ、現在の超古代史ものとは箔も桁も違う奇跡の書といわれているらしい?
一世キングギドラが隕石となり地球に落下した、黒部のカスミ沢とともに真偽不明な『富山県のなぞ』の一つである。

さて、「皇祖皇太神宮」も「かんぽの宿」の最上階天望風呂も行ってみたいところだが、夕飯までに戻らなければならないので『仏性上人』調査とともに、捲土重来を期することにする。
買物をしての帰宅時間、約2時間也。

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越中2時間の旅2 川倉不動尊

赤倉ホテル赤倉ホテル泊目は妙高高原の赤倉温泉。
赤倉温泉はスキーも含め何度か訪れている。
古い温泉街だが家族でのんびり泊まるのにはよい。
赤倉ホテルを宿とした。パレス館というコースだ。娘に『パレス』ってなんだと聞かれたので、パレスとは「宮殿」とか「王宮」という意味だと答えた。疑心暗鬼だったのは和訳に自信がなかったからではない。予算をケチった結果の「パレス」を娘がどう思うかだった。
部屋はドアから階段で下りて両サイドをぶち抜いた面白いつくりだ。広くてセパレートバスも付いている。
温泉もほぼ満足できるものだった。ただ年寄りには階段の多いのが難点だった。

さて、8月12日赤倉から糸魚川まで国道8号を経由して北陸道で富山まで向かう。国道8号沿いには廃線跡を利用したサイクリングコースが続いていた。機会があれば是非来て見たいところだ。

川倉不動尊2川倉不動尊3へ来る目的が墓参である。宿泊させてもらう親類は富山市内であるが、義母の生家と先祖の墓地は八尾にある。着日の午後に墓参りに行く。
義母の生家は八尾からさらに山に入る。墓地よりさらに上ったところに川倉不動寺がある。山川倉不動尊奥の小さな寺だが、歴史は古く近隣の篤い信仰を受けているようだ。
堂内は全てセルフサービス?ながらとてもきれいに手入れされている。




不動滝不動滝2動寺に行く途中に「富山の滝37選」に選ばれた不動の滝がある。落差は10mそこそこだが、真下から見上げるとそれ以上の迫力と清涼感がある。
ここは修験者の修行の場ともなっているらしい。
不動尊とともに滝にも合掌する。迎えてくれるのが「アブ」というのはちょっと辛いが‥‥


墓参とお不動様をお参りして戻る。
途中通り雨に足止めを喰らい。墓参の所要時間2時間也。


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越中2時間の旅1 森将軍塚古墳

8月11日
科野歴史博物館休みに義母の実家、富山に行く。
元気なうちに墓参りをしておきたいとの願いだ。おやじはある意味、門外漢であるので合間を見て行きたいところを好き勝手に見て歩く。
富山へは、東北道・北関東道・上信越道・北陸道と経由していく。かなり遠回りなようだが、渋滞のリスクは少ない。
往きは東北道で一部渋滞にあったがほぼスムーズにいく。妙高に一泊の予定だったが、上信越道沿いはほぼ観光しているので、娘の自由研究のネタ探しもかねて千曲市の『森将軍塚古墳』に行く。

森将軍塚古墳森将軍塚古墳2じとしても一度は訪れたかったところだ。
場所がわからないので坂城ICで下りて18号をひた走る。義母とカミサンは暑いので県立歴史館をみて休憩。娘と麓から約130mの尾根にある古墳を徒歩で目指す。
『森将軍塚古墳』。県下最大の前方後円墳で墳丘長100m。森将軍塚古墳8長野盆地を見渡せる高台にきれいに復元整備されている。ほぼ完成当時の威容を再現しているという。
眼下の真正面を貫く道は平安初期の水田跡の名残りだそうだ。両側を長野新幹線と上信越自動車道が、墳丘のある尾根を貫いている。ここに眠る王の御霊はこれを無礼な騒音と思っているのか、かつて自ら切り開いた土地の発展に快くしているのか知るすべもない。

森将軍塚古墳3森将軍塚古墳4墳館には後円部に埋戻された竪穴式石室のレプリカが展示されている。古墳の大きさは100m級だが、石室の大きさは、調査されているものとしては日本最大級らしい。科野の王の権力が窺える。




森将軍塚古墳5森将軍塚古墳6には古墳時代当時の村を再現した八代清水遺跡がある。竪穴式住居の中は縄文の掘建式住居よりは生活感が感じられるはずなのだが、三内丸山の出現以来、縄文への認識が180度変わってしまったので逆にあまり区別がつかなくなった。

坂城ICで下りて、古墳と資料館で2時間、時間を費やした。すでに16時を過ぎているので宿に向かう。


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ツリー初のぼり2

春日上ったばかりなのに、初のぼりってぇのはないよな。
前回すいていた(単にディズニーリゾートの人気アトラクションのファストパス未使用待ち時間に比べてという個人的感覚だが‥‥)のに気をよくして、家族総出で馬鹿の高のぼりに再チャレンジする。
勝手もわかってきたのでチケット購入はおやじひとりが並んで携帯で待ち合わせをする。これはディズニーリゾートのアトラクション待ちとは違うところ。係員に話せばちゃんと誘導までしてもらえる。
エレベーターも指定できる。前回は夏と冬だったので、1回待って春に乗った。このエレベーター、350mまでいくのがうちのエレベーターで11回に行くのとほぼ同じくらい!。11階まで35mはないと思うので10倍以上の速度となる。耳が痛くなるわけだ。

回廊行き回はフロア350止まりだったので、今回は『天望回廊』まで行ってみる。ひっくり返ったサザエの壷焼みたいなところだ。
大人1,000円10分待ち也。天望回廊は「初のぼり」である!



450風景1天望回廊望回廊はこんな感じ。
下から見るイメージよりは細い。それに気のせいかゆれている。
450mから見える景色。こうなると離着陸時のジェットやヘリから見る景色と同じだね。

真下真下を見るとこんな感じ。天望デッキの屋上がみえる。
ばあちゃんいわく、まさに『箱庭』だねぇ。
でもおやじいわく、吹っ飛んだ小磐梯の山頂から爆裂火口の底を覗き込む迫力には及ばない!
ま、あちらはガラスも鉄柵もないからね。

フロア450望回廊から、展望台の最高地点450風景2の『ソラカラポイント』。フロア450は巨大な灯台の回廊みたいなイメージだ。
女性トイレに行列ができていた。失礼ながら天望デッキで用は済ませておいた方がよい。




ツリーの影にツリーの影が映る面白いシルエット。子供が見つけて撮影した。







ミニチュア供のころ始めて上った東京タワーの特別展望台はどんな感じだったか記憶をたどってみる。
若いころの祖母が上ったという凌雲閣に祖母ははどんな感慨を受けたのかとふと考える。今ではそれを問いなおすすべもない。
塔はつねにその時代を反映する。人が高みを望むのは少しでも神に近づきたいという願望からか。それとも単にことわざ通り馬鹿なのか。馬鹿を愚かと置き換えた場合、人類はバベルの塔の時代から少しも進化していないことになる。


おみやげどと哲学めいたことを考えていては世の中楽しくない。
お土産を買って帰ることを忘れないだけ人類は進歩しているのだ?


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猿江神社例大祭

猿江神社は旧深川区である。おやじの住処、城東区とは旧下総と武蔵国境の大河、横十間川により隔てられている。カミサン側の身内は深川区に集中しており、おやじ側の身内は城東区に集中している。どこぞの本でも紹介されたが、江東区を仕切っているのは下町深川である。だからおやじはカミサンに頭が上がらないのかといわれれば、そうともいえる。

例大祭6て、例大祭4先日その旧深川区にある猿江神社の3年に一度の例大祭を見に行った。とはいえ前回の本祭りは4年前だった。昨年は方々の祭りが1年順延となっている。
猿江神社の氏子を構成する六ヶ町会旗を先頭に、神幸行列の連合渡御が六ヶ町内を練歩く。




例大祭古式豊かで荘厳な行列と、下町ならではの荒々しい神輿のコントラストが面白い。
神官の行列を天狗が先導しているが、『猿江神社』なのでやはり『猿田彦』なのだろう。




例大祭2吉の商店街はちょうど真北の位置にスカイツリーがある。碁盤の目のように直線に伸びた道路はツリーまでさえぎるものはない。
ツリーをバックに進む行列がまた過去と未来の不思議なコントラストを描き出す。






神幸行列の前に、商店街沿いの学例大祭5校の前で、お稚児さんたちによる可愛い舞が奉納されていた。
『浦安の舞』というそうだ。しかし浦安の舞浜にあるディズニーリゾートとは関係ない。




子供神輿1子供神輿東区在住ながらコネを伝って?子供を神輿行列に送り込む?
子供神輿は各町内ごとに其々の町内を回る。子供が参加したのは毛利の神輿である。途中町内のポイントごとに休憩所が設けられているのだが、ここは伊勢ヶ濱部屋の前。7月場所で全勝優勝を果した『日馬富士』の所属部屋である。

子供神輿3江東区は大通りも碁盤の目のように交差する。子供神輿が錦糸町に近い四つ目通りを横切る。
タイミングを見計らって一気に押し通す!
神様といえども、交通ルールに縛られる今日。お祭りも大変である。


盆踊り夜は、猿江神社境内で盆踊りが開かれる。狭い境内だが子供くじなども催されて大盛況である。
下町気分を満喫できる一日であった。
帰りは再び国境の大河横十間川と、南船北馬とも言うべき江東区の風土を南北に分ける大河小名木川を越えて家路に向かう。

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ツリー初のぼり

チケットカウンター曜日の夕方、時間ができたので久々夫婦二人きりでソラマチへ行く。
もう開業からずいぶん経つし、夏休み中とはいえ平日でもあるので、『1時間待ち以内なら上ってみようか』ということで4階エントランスに行ってみる。
エントランスは混んでいるが、入口に列はない。南方の少数民族の服装のような??スタッフに聞くとチケット購入まで40分待ちくらいとのこと。せっかくだから待ちましょう!ディズニーリゾートじゃ序の口の待ち時間だ。
ツリーゲートールの中を迷路のように並ぶ列。チケットを買うとまたディズニーリソートのアトラクションの入口のような扉(違うのはここで手荷物検査があることくらい?)をくぐり4基のエレベーターの前に順番に誘導される。本当に何かのアトラクションに入る感じだ。


エレベーター冬レベーターは其々四季をイメージした内装になっているという。とりあえず一番奥に誘導される。ここは『冬』なのだそうだ。思わずビジターから歓声が上がる。ディズニーリゾートと違ってここはまだみんな初のぼりさんなのだ。
エレベーターは350mの展望デッキ3階まで一気に行く。四季もいいけど外が見えたら本当にアトラクションだろうに。

フロア350。みえた!中は思ったよりすいている(肝心の中の写真忘れた!)。
まず見たのは我が家の場所。
見える見える!暑さで空気がよどんでいるが結構はっきり見えて感動。
逆に350mと言うと全てが点のように見えてしまうのかとイメージしていたが、景観的にはサンシャイン60の屋上とあまり変わらないようにも思える。
フロア345にはレストランがある。高さより価格の方がよほど高いのに満席であった。最下層のフロア340にはカフェがある。ガラス床ここも長い待ち列があった。単にお茶するだけなら相変わらずブースターカフェががら空きだ。
お楽しみのガラス床。でも2重構造になっていて怖いと言うイメージは少ない。
高すぎるのか?迫力という点では正直東京タワーのほうが怖い!

帰りはエレベーターが変わった。エレベーター夏今度は『夏』だそうだ。光もんがきれいだね。もう少し粘って夜景まで見ようかとも思ったが、家から10分の別世界である。
何度かはのぼる機会があるだろう。


雅ラマチで買物と食事をしていたらとっぷりと夜になっていた。
やはり東京のパノラマを見るのは楽しい。
『馬鹿と煙は高いところへ登る』と言うが、江戸っ子の血を引く東京人は大体が『馬鹿の高上がり』ってぇもんだ。



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どぶがわ

親水公園江東区に住むようになってから、川に興味を持つようになった。区が親水事業に積極的だからか、あるいはもともと水とともに生きてきた当地のエキスがよそ者の自分にも浸透してきたのか、川を身近に感じるようになった。
江東区・中央区はかつて東京のベニスと思えるように川が縦横に流れていたという。今の住処もミニウォーターフロントとはいえる。
江東区民になったときはすでにほぼ現状の河川整備が出来上がっていた。
大きな川は資料や痕跡で在りし日を想像することができる。しかし、資料にも地図にも載らないような水路‥‥通称どぶ川はこの辺にもたくさんあったはずだ。

もともとは葛飾区出身ではある。生家はいまはない。区画整理が進み、この辺だったらしいということしかわからない。幼少をすごした祖父母の実家もすでにない。CIMG0473
当時家の周りにはいたるところに溝(どぶ)があった。どぶ川と呼ばれた生活廃水路‥‥本来はそれだけではないのだろうが。‥‥幅は1m〜2m程度のものから地図にも載る3m〜4m程度の水路まで町中に張り巡らされていた。車1台もすれ違えないような道に面したどぶ川。家に入るためにいくつもの橋が架かっていた。
小さなどぶは町の中を迷路のように這って水路へとつながる。
水路はいくつもの街や田畑の間を縫って更に大きな水路や川に注ぐ。

現在、訪れるとそこは拡張した道路になっていたり、細い軒下の路地となっている。引っ越す当時に残っていたどぶ川も100%といっていい状態で暗渠化(‥‥というと地下水路が生きているようだが、実は下水管を残してすべて埋められた‥‥)された。
どぶ川は臭く汚かった。身近にあるにもかかわらず、そこで遊ぼうとか、川を楽しもうという発想はなかった。当時は曳舟川どころか綾瀬川ですら“キング・オブ・ドブガワ”と思えていた。
幼児の安全対策の問題もあったし、道が狭く車とのすれ違いも大変だった‥‥今より車はすくなかったし、小さかったが‥‥。どぶが埋められることに然したる抵抗もなかった。

それから暫くして、環境保全の一環として下町のいたるところで親水公園化が進んだ。
でも、本来の環境浄化とはちょっと違うんじゃあないかと思うのは自分だけか‥‥?
下町が下町らしくなくなったのはどぶ川がなくなったせいでもあるのではないか?
汚いどぶを埋めて人工の清流を創るのではなく、家の前を流れていた水路。家の軒下を蛇行するように流れていた水路。本来あった水路に清水が流れるようになることが、本来の河川清流化事業ではないのか。
水路は危険をはらんでいるのも確かだ。しかし危険だからといって全てを排除する理由にはならない。
なぜなら、危険を危険と認識できない子供、そしてそれ以上に危険因子の減少により子供に対する危険回避の監視を怠る親が増えたことのほうが遥かに社会にとって危険だからだ。
また、開渠となることで新たに環境問題が浮上するリスクもある。排水溝ですらゴミ捨て場だと思っている輩が多いからだ。
そしてこれがもっとも問題になるだろうことは、街中を流れる水路に水を満たすには、ポンプによる人工水流といくつもの浄化設備が必要になること。ただでさえ省エネが叫ばれる時代、エネルギーの浪費以外の何者でもない。完璧といえる排水網を手にした下町は、すでに自然に水が流れる土地ではないのた。海水面が天井くらいの高さなのだから。
残念ながらただ溝に水を通すだけでは、以前の不衛生などぶ以上に悲惨な状態になってしまうだろう。
水と調和した暮らしなどとお題目は唱えているが、水はそれだけ人蟹のいる都心の川々から遠く隔離されてしまっているのだ。

家の前を流れる極普通の開渠で、生き物と共生できる町並み、水路を挟んだ道端でおばちゃんたち(最近はヤンママか)が会議をするような風景は、もはや原発に頼らない電力確保より世迷言なのかもしれない。少なくとも日本橋の上に首都高が走っているような無粋な都市開発が、現在もその延長であるうちは‥‥。



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会津紀行 会津編 その3

感慨深い大塚山古墳をあとにして、飯盛山若松市内に入る。目的は飯盛山と鶴ヶ城。但し観光ではない。個人的な探し物である。大塚山から、飯盛山まではすぐである。混んでいるかと思ったが、あっさりいけてあっさりと駐車場にも入れた。飯盛山はあまりにも有名で、何度も訪れているのでいまさらではあるが、鳥羽伏見から函館戦争まで続く戊辰の役には敗者側で後世立身した者も多い。歴史は勝者の記述であり、敗者のことはいいように卑下され歪曲ささざえ堂れるものだが、これら生存者の恥を忍んだ伝承のおかげで今日敗者の思いを知ることが出来るのである。遠く会津の血を引くものとしては複雑な心境というところか。
毎度だが白虎隊士の墓に拝礼して順路を進む。実は飯盛山で最も興味があるのは白虎隊士の墓でも自刃の地でも、さざえ堂でもない。
戸の口洞門である。灌漑水路として作られた洞門で、戸ノ口原の合戦に敗れた白虎隊士中二番隊生存者が戸ノ口原よりこ洞門の洞門を通って飯盛山に退却したとあり、以前はかなり長い隧道だと思っていたが、実際は旧滝沢本陣の裏山から入るわずか150mほどの隧道であった。出口はあまりにも有名だが、入り口は意外と知られていない。一度入り口を見たかったのだが、今回も時間の都合で断念。飯盛山に来る楽しみはまだ残されることになった。
次に鶴ヶ城に向かう。バイパスは観光客の車で大渋滞だが、此方は市内の裏路地を進む。若松は典型的城下町で市内には太い一直線道路がない。狭い道ゆえ一方通行と交差点が多い。これをうまく利用すると渋滞なく城まで短期間に動ける。KARANO号が薩長軍でなくてよかったものだ。因みに会津では薩長軍を官軍と呼んではいけない。会津にとっては会津軍こそ真の勤皇、“官軍”なのである。会津に心鶴ヶ城堀さくらふぶきを寄せる孝明帝を死に追い遣った薩長と討幕派公家は明治帝を押し立てて、頑強な会津藩を賊軍にして一気に葬り去ろうとした。何故会津が頑強に抵抗したのか?そりゃそうだ、会津にとっては宿敵長州と裏切った薩摩こそ禁中から締め出すべき君側の奸だと思っているのだから‥‥
さて、城内の駐車場への一本道は大渋滞。容易に引き入れてはくれない。しかしここからすでに満開の桜が出迎えてくれている。風が吹くと桜吹雪の嵐だ。この時期にこれだけの桜を見られるのはやはり珍しいとのことだ。鶴ヶ城天守
会津鶴ヶ城。正式には若松城なのだが、地元の人は愛着を持って鶴ヶ城と呼ぶ。
もとは蘆名氏の黒川城で、伊達領を経て蒲生氏郷のときに7重の天守と現在の縄張りが完成する。
その後、上杉氏・加藤氏を経て現在の五層の天守となり、保科松平23万石の居城として幕末を迎える。もちろん今の天守は復元されたものだ。また現在も改修と復元工事が進んでいて、足場を組まれてしまっている。白亜の城の全容が見れないのはちょっと残念だ。鶴ヶ城天守2
鶴ヶ城は会津戦争での、薩長軍の大砲の猛攻に耐えたが、明治7年に政府により取り壊された。
熊本城と並んで幕末から明治の近代装備の戦争に巻き込まれた数少ない城郭である。熊本城は侵攻軍を跳ね除け、鶴ヶ城は降伏開城した。この結果を持って両城の城郭としての優劣をつけることがあるがそいつは違うだろう!
旧式武装で攻める1万3千の薩摩軍と農民兵とはいえ最新装備と近代訓練を施された4千の政府篭城軍の攻防に対し、旧式武装で守る4千の会津軍に対して、7万の兵力と最新武装の薩長軍の攻防である。しかも援軍を期待できる熊本篭城軍と孤立無援の会津軍である。1ヶ月間持ちこたえたことのほうが賞賛に値する。しかし1ヶ月も戦場と化した町民農民にはたまったものではないだろう。会津士族が美化される影で一般民衆の苦痛と恨みの声があったのも確かだ。
さてさて、そんな想いを寄せながらゆっくり城を見たかったのだが、今日東京に帰るので長居も出来ない。目的のみやげ物はここにもない。聞いてみるとかなり以前に問屋が取り扱いをやめてしまったとのことで、会津で入手することは困難らしい。この時期珍しい桜吹雪をバックに天守を撮影。早々に退却する。退却も追撃を受けないようスピーディーに裏道を通る。
娘は親類のうちでゲームをして遊んでいる。まだ歴史の話や火山の話をともに語る歳でもない。そのうち子供が歴史を理解し興味を持つようになったらゆっくりと史跡めぐりをしたいものだ。
帰りも渋滞を避け、大いびきの母子を乗せて夜の高速をひた走る。

今回の走行 1,173km
使用燃料   114.42L
燃費 10.25km/1L

スタッドレスを履いて峠越えもして荷物満載で驚異的燃費である。リッター10km越えは計測した中では最高である。往復の渋滞もなく高速も低料金で、総じてリーズナブルなベストドライブだったといえる。


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会津紀行 会津編 その2

大塚山古墳看板2

大塚山古墳看板翌日、再度会津盆地に。今日は会津の中心都市、若松まで足を延ばす。板下から若松まで磐越道で300円だ。今までは1時間半はたっぷり掛かった所要時間は1時間強に短縮された。若松ICより裏道を抜けて大塚山古墳へ行く。
大塚山古墳は会津盆地に北から岬のように迫り出した丘陵地の先端にある。前方部を望む大塚山前方部頂上今は霊園の中にあり古墳の麓まで墓地となっている。実は数年前に来ているのだが、夏の盛りで樹木が生い茂り、スズメバチがうようよ飛び回っていたのでびびって立ち入れなかった。今回はリベンジである。

かつては全長90m、2段構築の前方後円墳とされていたが、最近の調査で3段構築で全長114mの大型古墳で前方部から陪塚テラスから後円部あることが判明した。案内板の全長が手修正されているのが面白い。ここははっきりと前方後円墳とわかり、後円部には石棺のあとも残されている。横には大きなテラス(おしゃれだねぇ‥‥??)があり、前方部の先には陪塚もあった。

会津には大きな古墳が数基ある。東北地方としては早くからヤマトとの関係が発生していたようだ。書紀には四道将軍の話があり、北陸から来た建沼河別命(たけぬなかわわけ)と、太平洋側から遠征した大彦命(おおびこ)が会津で出会ったと記されている。真偽のほどは不明だが、出土する遺品などから人の移動の流れと一致するのだという。

大塚山より磐梯山を望む大塚山古墳から、霊峰磐梯を望む。この古墳が出来た当時は、磐梯山は2,500m級の単独峰だったという。磐梯とは天に届く岩のはしごという意味らしい。大同元年(806年)の大噴火により山頂を吹き飛ばし、沼の平を中心とした4連峰になったという。猪苗代湖もそのときに現在の形になったと伝えられているが、残念ながら学術的にはほぼ否定されている。その後の明治における世界噴火史に残る惨劇は特に有名である。被害者や研究者の証言も多く残されている。以前、劇場でダンテスピークをみたときに真っ先に思ったことは、この映画・この特撮を日本で、磐梯山でやってほしかったということだった。
明治の小磐梯の噴火で裏磐梯は美しい景勝地に変わったが、多大な犠牲とともに、会津藩を支えた鉱山も数十メートルの土石流に呑まれてしまった。宝の山は遥か土砂の下に消えてしまったことになる。



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会津紀行 会津編 その1

奥会津の親類の家をベースに会津亀が森看板盆地も散策する。と言っても若松の名所旧跡・喜多方や裏磐梯は毎年のように来ていたのでいまさらである。
今回の目的はやっぱり古墳である。
会津坂下という町のはずれに福島県最大の古墳がある。
亀ヶ森古墳。墳丘長127m、名取の雷神山に次いで東北第2位。4世紀後半の比較的初期の築造とされ、葺石で覆われた3段構築の大型亀が森後円部亀ヶ森古墳1前方後円墳である。周壕のことは書かれていないが、周囲の地形から大きな周壕の存在が見て取れる。
後円部に現在の参道があり、頂上には更に一段高い墳丘と、お寺とお社が並列して建っていた。後円部頂上
“ここ、鍵穴古墳じゃないよ”とカミサン。カミサンは前方後円墳を“鍵穴”と呼ぶ。いまどきこんな形の鍵穴はもうない。年がばれてしまうぞ‥‥。
確かに一見円墳である。もう一度全景をよくみる。神社の裏手に側溝と道路を挟んで小高い墓地がある。道路にて寸断されているがここが前方部らしい。
あらためて周堤位置と思われる外周道路から全景を撮る。亀ヶ森古墳全景2

入らない。裏手に回り前方部から撮影亀ヶ森古墳前方部より。やっと全景が収まった。やはり大きい。
亀ヶ森古墳に隣接してやや小型の古墳がある。
鎮守森古墳という前方後方墳だ。墳丘長55m。亀ヶ森同様周壕のあとが見受けられる。墳丘は比較的保たれているが、後方とはっきり認識できない。この一帯は過去に大きな水害に見舞われているらしく。古墳も変形したのかもしれない。頂上に小さな社があった。
鎮守森古墳会津というと、幕末。ちょっとマニアになると中世から戦国にかけての見所が豊富だが、結構古代史上も見所があるものだ。


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会津紀行 奥会津編その4

とはいっても、只見川の魅力が全てダムのそこに水没してしまっているわけではない。エメラルド色の川には鉄道橋を含む無数の橋と美しい情景がある。
話が飛ぶが、親戚の子にちょっとDVDでも見に行きたR252より第六鉄橋を望むいと誘ったら案内してくれたのがTUTAYAである。その距離およそ60km!首都高以上にすっ飛ばしても1時間は掛かる。因みに一番近いナショナルチェーンのCVSはファミリーマート。こことておよそ50km。50分近く掛かる。ちょっとコンビ二とはいい難い。でも大型複合ホームセンターのコメリはもっと近くにあるぞ。ここなら時速70km(地元では普通の流れの速度です!)で飛ばせば40分で着ける。自宅から船橋のららぽへ行くより早い。寄岩橋より只見線第八鉄橋を望む本名ダムから
このちょっとした買物の間に車中から眺められる景色は格別である。ららぽへの買物では絶対に味わえない!
特に只見線の鉄道橋はよく写真集にも載るくらいで、鉄道マニアの羨望の的らしい。子供のころは今ほど道や橋が整備されてなく、近道として鉄道橋を徒歩で渡った。いつか娘にも試練させてやりたいものだ。

今年は例年になく桜が長いそうだ。只見川の中流域に柳津町がある。柳津虚空蔵尊で有名なところだ。桜が満開で綺麗だったのでちょっと立ち寄る。
柳津さくらまんかい観月橋と虚空蔵尊
福満虚空藏尊圓藏寺。日本三大虚空藏尊の一つと言われ。只見川の渓谷に向かって建てられた景観は、四季折々の美しさがある。積雪と紅葉の時期に訪れたことはあったが、桜満開に出くわしたのは多分何十年ぶりだろう。国道を橋も景観とよくマッチしている(今は改修中で残念!)。
今でこそ景観工学が確立している時代だが、おそらくそんな言葉もない時代にこのルートや橋々を設計した偉人たちはどうすればこの美しい山河の景色と調和できるか頭をひねったのだと信じたい。
雪と桜と情緒と温泉!仕事の関係でゆっくり出来なかったのが非常に惜しまれる。

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会津紀行 奥会津編その3

親類の家をベースに更に只見川を下る只見駅
只見駅。奥会津の交通の要衝であり、数少ない只見線の有人駅である。停車する列車は上下合わせて1日7本!7時台の上りを逃したら14時まで待つことになる。3分〜4分毎に来る山手線に乗るために走る都会人の姿は茶番にすら思えてくる。

駅舎から少し離れたところに懐か現役の転車台しい転車台がある。否!懐かしくはない。今も現役なのである。観光シーズンにSL C11の特別列車が若松−只見間を1日1往復走る。折り返し駅の只見でSLが方向転換するためだ。今が丁度シーズンなのだがすでに時間が過ぎておりSLを見ることは出来なかった。(というより列車そのものに出くわすこと自体がラッキーと言える状況なのだが‥‥)只見駅看板

駅の観光案内に水久保城址水久保城址と言う案内があった。伊達政宗に敵対した山内氏の居城とある。上杉に後詰めされた難攻不落の要害は最後まで伊達の侵攻を跳ね除ける堅城だったようだ。以前はこんな綺麗な看板ではなかった。大河ドラマの力である。

只見の町外れで大きな支流である伊南川と合流した只見川は山間を北東に流れる。山間の川は岩場・急流・広い河川敷・清流と変化に富んでいる。伊南川はその 典型だが、本流只見川はどこで見ても深いエメラルド色の深い淀みが多い。只見川には“瀬”がないのだ。
只見川は電源開発の川であり、ちょっと瀬になりそうだなと思うと、次のダムになってしまうのだ。

本名ダム上田ダム宮下ダム

親類の家で地図を借りて眺める。上流から「奥只見」「大鳥」「田子倉」「只見」「滝」「本名」「上田」「宮下」「柳津」「片門」と大川に合流し阿賀野川になるまでに10基のダムがあった。部分的な境界も含めたわずか6町村の間にである。
地元の古老(と言っても初老くらいからか)に聞くと、この川も昔は清流でいたるところで川遊びが出来たそうだ。どこぞの政党みたいに何時も「だむ」を“逆様”にみているわけではないが、やはり清流を失った川は少しさびしい。

 

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会津紀行 奥会津編その2

再び小出に戻りR252を一路六十里越へ。途中女神の像、道の駅入広瀬で休憩を取る。鏡ヶ池の畔にあるこじんまりしたPAだ。洒落た食事処もあるのだが、奥只見で食べたばかりなのでまたの機会に‥‥。湖畔に池の名の由来である鏡を持った女神像があった。旧来の巫女調っぽい服装だが、顔はもろに西洋風!由来に書かれている物語もちょっと西洋風にアレンジされている感じだったが、その名の通り美しい池である。

県境の六十里越トンネルを抜けると、すぐ眼下にもうひとつの巨大人工湖、田子倉湖が見えてくる。この六十里越は大白川・田子倉間は人家もなく冬季は閉鎖となり、開通したのはほんの数日前である。只見の町に着く前に田子倉ダムで小休止する。
田子倉ダム下流を望む
田子倉ダム。昭和35年完成。ダム体積で全国2位・総貯水量全国3位・発電出力で奥只見についで2位。此方も日本屈指の巨大ダムである。眼下には、すぐ下流の只見ダムを見ることが出来るが、この巨大ダムから見るとまるで東武ワールドスクエアの世界である。田子倉ダムは只見の町からも目前に眺めることが出来るように、かつては集落の続く谷であったと言う。田子倉ダムにてその湖底には今もいくつもの集落が沈んでいる。また、奥只見ダムと違い、すぐ麓を国道が田子倉ダム通っており見上げるようなダムの威容を直前に見ることが出来る。
ここを見ていると例の佐藤浩市演じる赤い月の部隊長の脅迫は結構リアリティを感じたりする。

さて、ダムばかりでは面白みもないのでちょっと足を延ばして温泉へ行く。
只見の中心地から沼田街道を13km・15分ほど南下すると町営の温泉宿泊・休息施設“季の里 湯ら里”がある。宿泊のほかに入湯や食事だけでも立ち寄れる。連湯ら里休中なので結構混んでいる。温泉にどっぷり浸かったあと、遅い昼食にしようと思っていたが、昼時間を過ぎてレストランは閉店。流石公営!!軽食や喫茶くらいやっていてもいいのではないか?
結局食事処がなく、スーパーで弁当を買ってレンジでチンして車中で食事。安く上がったが大不況であった。


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会津紀行 奥会津編その1

GWを利用して親の実家である奥会津にいく。
連休の渋滞を回避すべく夜中に東京夜行を出発。
関越道を北上し小出から、つい先日積雪による冬季閉鎖が解除になったR252の六十里越峠を抜けることにした。
渋滞もなく塩沢石打SAで仮眠を取り朝を迎える。今年は平年より雪解けが遅い。越後の山々にもまだ残雪がかなり残っている。
久々のKARANO号長距離遠征である。この日を意識したわけではないが、今年はスタッドレスを履きっぱなしである。関越石打SA
すでに丸4年を迎えたスタッドレスは山があろうとなかろうと使用限界に達している。今年は履きつぶすつもりでいる。荷物のせいかノーマルなのにローダウンのように沈んだボディ。ただでさえホイールベースが長いのだ。せめて後方の四駆車(トゥアレグかなぁ)位のクリアランスがほしい。

会津入りの前に銀山湖に行ってシルバーライントンネルみる。娘に雪の山を見せたいし、レストハウスで朝食も取れる。
小出からR352湯之谷を経由してシルバーラインを通り奥只見ダムに。
シルバーライン、奥只見。どっかで聞いたような名前。そう、あの織田祐二のホワイトアウト(ケイト・ベッキンセールじゃないよ)の舞台となった奥遠和ダム・奥遠和シ奥只見ダムルバーラインのモデルがここである。十数km続くトンネルを越えていく、映画の設定どおりの秘境である。映画ではダムの撮影は黒四だった。諸々の理由からだろうが、ここまでやって奥只見ダムが使われなかったのは悔しいの一言である。

奥只見ダムの懐にあるレストハウスは今でも雪に覆われていた。レストハウスから少し登ったところに丸山スキー場を望むある丸山スキー場は、春休み前にオープンし、今もシーズン真っ盛りである。レストハウスの駐車場もほとんどがスキー・スノボの客である。若いころはGパンにトレーナーでよく滑りに来たものだ。

ダムに通じる遊歩道は雪の壁だった。雪解けの水にふきのとうがあちらこちらに顔を出している。“知ってるよ。天ぷらにするとおいしいやつ”と娘。こいつは食うことしか頭にダムへの道ないのか‥‥。

奥只見ダム。昭和36年完成。高さ157m・堰堤長475m(全国5位、重力式ダムとしては日本一)・貯水量601百万 m3(総貯水量としては2位‥‥最近徳山ダムに抜かれたが、この上位2ダムはダントツ双璧で他の追従を許していない)・発電所の出力56万kwは水力発電としては日本一。まあ、何をもって日本一とするのかによる奥只見ダム堤頂が、その規模からいえば奥只見ダムは日本屈指の巨大ダムであることは間違いない。建設の背景、雪に閉ざされた秘境故の難工事からも黒四と並ぶ双璧と思える。

土産にけんちん汁の缶詰を買う。ここのけんちん汁缶は最高である。最近は高速のSAなどでも売られているが、ここで買うことに意義がある!?看板
帰りも同じくシルバーラインを抜ける。関越トンネルと違い、此方のトンネルはスリル満点である。“赤い月”に襲撃される前に麓に戻れて一安心‥‥?


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五条野丸山古墳

古いデータを整理していたら1枚だけのフォトデータを見つけた。
日付は2007年2月。ちょうど4年前。
関西出張の際に1日の休日で明日香村に行ったときのものだ。写真は五条野(三瀬)丸山古墳。
MTBルックのクロスバイクをレンタルして明日香村を周ったときのものだ。

明日香村と言うと石舞台や甘樫丘、高松塚古墳が有名だ。当時は甘樫丘東麓の曽我邸跡?と言われた発掘が世間の話題となり、ぜひ行きたかった。もちろんそれらは見て回ったが、そのほかにぜひ行ってみたかったのが五条野(三瀬)丸山古墳。狭義の意味では飛鳥ではない。

五条野丸山古墳。墳丘長318m。現存する全国第6位、三瀬丸山古墳奈良県下では最大の巨大墳墓である。
墳丘の一部が陵墓参考地となっているが、周囲は自由に入れると言う情報をつかんでとにかく行ってみた。豊浦から橿原神宮前駅に向かってR169を左折してしばらく行くと左側にその巨大な姿を現す。R169はその前方部を削り取って南下している。

行って見ると立ち入り禁止は後円部上方のみで前方部全体と後円部下段は自由に散策できた。周囲を散策した後前方部の頂(といってもまっ平らだが)に立つ。このでかさには感動。まさに映画で見る空母の甲板のような感じだ。前方部墳丘が艦橋といった形で突出して聳えている。
実はその先年、岡山の造山古墳を訪れている。もちろんここも墳丘への立ち入りが可能なのだが、造山古墳は麓でこそその巨大さには圧倒されたが、登ってみても古墳としての大きさを実感できなかった。
あまりにもでかすぎる!周囲の山に溶け込んだその墳丘はただの山なのだ!
その点、丸山古墳はふたまわりほど小さいものの古墳の形状を認識できて、むしろ墳丘としての大きさはこちらのほうが実感できた。

丸山古墳は前方部が極度に発達した終焉型の前方後円墳で6世紀後半の築造とされる。これ以降畿内では巨大古墳が姿を消す。後円部には石舞台も凌ぐといわれる全国最大級の横穴式石室があるが残念ながら立ち入りは出来ない。被葬者は不明。候補者としては欽明天皇が挙げられている。但し、欽明天皇陵としては丸山古墳より南方1kmにある、全長140m、ほぼ同時代の築造とされる梅山古墳が比定されている。立地・年代・実証的にも文献に合致するという。そのほかの候補者として筆頭に挙げられるのは蘇我稲目という人物だ。稲目は蘇我馬子の父で蘇我氏興隆の基を築いた人物だ。
蘇我稲目が丸山古墳の被葬者とすると、臣下である大臣が大王を遥かに凌ぐ権勢を有していたことになり、大王自らそれを認めていることになってしまう。蘇我氏大王説も頷ける所以だ。

巨大古墳を造るための正確な測量技術と高度な築造技術。それが寸分変わらぬスケールモデルとしてほぼ全国一斉に波及する情報伝達力を有したこの時代に、最高峰の巨大古墳の被葬者も正確に伝わっていないことのほうがUFO以上のミステリーだ。当時の何者かの権力によって徹底的な情報操作が行われたと考えるほうが、素人にはごく自然的である。当時にはそれだけの権力と技術があったのだから。

丸山古墳を訪れてすでに4年経つ。機会があればまた飛鳥の地を訪れたい。そのときはまた周囲の景色や家並みも変わってるだろう。但し、1500年近い年月から比べれば4年の月日は塵に等しい。巨大古墳だけは築造当時の真実を飲み込んだまま、変わらぬ姿で迎えてくれるのだろう。
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遠見塚古墳

急に仙台の営業所に出張を命じられる。と言っても日程は日帰り。遠見塚古墳
仙台の所長との雑談で、“実はすぐ近くにも大きな古墳があるんですよ”と知らされる。
“それは知らなかった”ということで食事の合間に案内してもらうことになったのが“遠見塚”という古墳。
所長は古代史や遺跡にはあまり興味はないようだが、以前、前任者のときに雷神山に行った話をしたことがあるので古墳オタクのために気を利かせてくれたようだ。
確かに名前は聞いたことがあるが、さして気には留めていなかったその遠見塚古墳は仕事先から車で5分くらいのところにあった。バイパスに面して前方部が道路で削られていたが、綺麗に復元されており、見せてもらった写真のイメージよりはかなり大きく感じた。
“これは比較的初遠見塚全景期の形だね”と受売りの説明をする。所長が案内で墳丘に登ろうとするので、拝礼したところ、所長もあわてて手を合わせた。“一応貴人のお墓ですからね”。“‥‥でも子供がよく滑り台やマウンテンバイクで遊んでますよ”。“‥‥‥‥”

遠見塚古墳。全長110m、後円部は高さ6.5mとある。前方部は平らで低い。4世紀末から5世紀初頭の築造とのことで、雷神山とほぼ同時期のようだ。宮城県下では第2位の大きさで多数の出土品のほかに、かなり広域な周壕が復元されて公園となっている。平日の小雨の中なので訪れている人も少ない。以前は周囲遠見塚前方部が畑で、戦後に軍用空港の建設でかなりの盛土が掘削されてしまったが、昭和43年に発掘調査とともに国の史跡に指定され墳丘が復元されて公園整備が進められたとある。
復元当初は白石が引き詰められていた写真の周壕部は枯れ草となっていた。春には野原のようになるのだろう。

雷神山にしろ、この遠見塚にしろ4世紀から5世紀の首長墓であろうが、名取柵が設けられ東国の移民が進められるのが7世紀初頭としても、それ以前は蝦夷の人々の土地だったろう。前方後円墳がヤマトとの同盟の証のように言われているが、これは蝦夷の首長の墳墓なのか、それともその頃頻りに遠征をしていた毛野を中心とする坂遠見塚後円部東の首長達が征討の証として築いたものなのか。
この後38年戦争で戦乱の中心が多賀城以北から盛岡に移っていくのは300年も後のことになる。ここに眠る被葬者はどのような人物なのか。今回の出張の思わぬ副産物に興味が湧いて来る。

“古墳の上に登るとなんとなく古代の人と空間を共有しているような気になりますねぇ”と所長がつぶやく。まぁ、確かにそんな気になることが古墳に行って墳丘に登る楽しみではある。
仕事で来ているので長居は出来ないが、束の間のよいひとときをくれた同僚に感謝!
近世には興味があるようなので東京に来た際遠見塚古墳案内碑はぜひ徳川所縁の場所でも案内したい。

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ショート 毛野王国−6

6.毛野の挫折そして


先年2万の大軍を擁し、新羅の支援を受けながら物部麁鹿火率いる6万の大軍に敗れ去った磐井の記憶が痛烈によぎる。武力対立となればヤマトは数万の派兵が 可能であろう。かつては磐井一族を凌駕する国力を有した毛野連合も現在の半独立傾向にある首長たちを取りまとめてヤマトと抗することはもはや不可能であ る。関東の独立か、連合を捨て一首長としてのヤマトへの従属か、小熊はついにこの苦渋の選択を強いられることになる。

結局、小熊は後者を選択する。小熊に使主討伐の軍勢を進発させることは出来なかった。毛 野の状況にもはや選択の余地がなかった。すでに小杵と使主との戦端は開かれていた。しかし、大国毛野の援軍の希望が失われた現在、ヤマトの後ろ盾を背景に 攻勢に出る使主を迎え撃つ力は小杵にはなかった。小杵の軍は大敗し小杵は使主の軍に捕らえられ処刑される。小杵が領していた城南・城西・多摩地域は使主に より屯倉としてヤマトに謙譲された。まだ一部にヤマトとの交戦を唱える首長たちを抑えて、小熊は使主の武蔵国国造就任を承認するしかなかった。

乱終結の後もヤマトより小熊に対して制裁や処罰に対する勅旨は訪れなかった。上毛野が直接反乱を起こしたわけではなく、蝦夷統制の盟約は依然実行されてい た。大和には直接小熊を討伐する名目もなかった。しかし、すでに小熊の取った態度は毛野連合の分解を意味していた。大和と各首長たちの個別の折衝を抑える ことはできなかった。

毛野連合を構成していた各地の勢力は完全に独立化され、ヤマトによって随時国家行政機構への組み込みが開始される。彼ら首長はそれぞれヤマトの支配体制の もとに国造に任命され政権維持と本領安堵が認められる。武蔵の国都が現在の行田に移る。埼玉古墳群が今もなおその権力の威容を今日に伝えている。やがて上 毛野も一行政区としてヤマトとの従属関係のなかでの存続しか生き残るすべがなくなる。

それは出雲・吉備・筑紫についでその大権力を誇った毛野王国とも言うべき連合国家の終焉であった。武蔵の国に双子山・鉄砲山・将軍山など100m級の大型墳墓が相次いで造営される頃、一時的に上毛野の地の墳墓は小規模化する時代がある。これは丁度、武蔵・上野の乱が収束した時期と重なる。この時期、上毛野は一時的な瓦解状態にあり、巨大な前方後円墳墓の造営はできなかったのかも知れない。武蔵国造の乱後の小熊がどのような立場に置かれていたのか知る由もないが、毛野の分裂とその宗主権を失った苦汁の日々であったに違いない。


エピローグ


しかし、ほどなく毛野には新たな道がうまれた。以前よりヤマトに服従しない関東以北の蝦夷たちが毛野の分裂により、関東・東北での軍事力の停滞を背景に各 地で反乱を起こし始めた。その反乱鎮圧のためにヤマトは再び毛野の軍事力を東征に向ける方針を出したためである。ヤマトの地方官に甘んじた毛野であった が、ヤマトに服従した他の関東諸勢力には蝦夷を畏怖させ、反乱鎮圧をする力はなく、かつての名将知将を多く輩出した毛野一族の軍事力統制力を潰してしまう ことはヤマトの東国経営にはマイナスであることをヤマトが認めざるを得なかったためだ。毛野連合を構成する首長たちは国造として、関東では唯一独立君主の 称号としての「君」の名が与えられ、ヤマトの支配体制のもとにかつての領国支配の権益と世襲および東国における征夷統帥権が与えられた。関東全域を影響下 においたかつての大国毛野の面影はないが、それぞれの首長等は武蔵・上野の乱以前の領域支配体制が維持されたと見てよいだろう。そして上毛野氏も血族の宗 主家としての地位が安堵され、ヤマト統制のもとに緩い血族集団としての毛野が再生した。

毛野の地に再び大型墳墓が造営されるようになる。

小熊の没年・その後の系譜は不明である。しかしどの歴史書にも武蔵国造の乱に より小熊とその一族が処刑または処断されたと記すものはない。前橋市にある『上野総社神社』には、武蔵国造の乱から8年後の安閑九年に「上毛野国君小熊が、社殿を改築して郷名に因んで蒼海明神と称えるようになったとある。そらく小熊は上毛野君として直系を後世に残しその生涯を全うしたものと思われる。かつての毛野の本拠地である前橋市周辺にこの時期に造営された大型墳墓のいづれかが小熊の眠る墳墓であるのかもしれない。

やがて律令制度の全国施行により国造世襲が廃止され中央官僚が国司として赴任されるようになる。小熊の子孫である上毛野氏とその血縁氏族はその後も地方豪族 としては格別とも言える「朝臣」という高級貴族の称号を賜り、あるものは国司として分国運営を担い、あるものは軍権を委ねられ将軍としてヤマトの勢力拡大 に寄与し、またあるものは中央官僚としてヤマト朝廷内で手腕を発揮し、その後数世紀にわたりその名と功績を残すことになる。


おわり



東京に残された大型古墳は4世紀〜5世紀前半にかけて最盛期を迎える。埼玉古墳群の出現とはタイムラグがある。南武蔵の小杵と北武蔵の使主の抗争に当てはめると時期的に無理があるようにも思える。

この乱に上毛野がどの程度かかわっていたかも明確ではない。この乱により毛野が瓦解し弱体化したということは、考古学的にも、文献からも読み取ることは出来ないようだ。

ただし大和政権の支配領域拡大の中で関東に対する支配権強化の流れは古墳の埋蔵品、あるいは文献からも推測することができる。

しかし今尚関東各地に残された大型古墳が誰を埋葬したものだったのかを明らかにするすべは残念ながらないようだ。

 初めて上毛野君小熊の事を書いてから20年以上経つ。当時は関東一円に上毛野氏の影響を受けたとされる史跡があったとされていた資料も多く、その当時から更に古い資料等をもとに想像をめぐらせたものだが、この20数年の間に、考古学の進歩等により、今まで毛野の影響下にあったとされる古墳等の出土品や年代も見直され、今では毛野王国なる地方王朝の存在はほぼ否定されている。しかし築造当時は、畿内・吉備に次ぐ巨大古墳をつくる国力を持った毛野なる勢力があったことも物象が標す事実である。



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ショート 毛野王国−5

5.武蔵国造の乱


磐井の乱が終息して3年が経とうとしていた。ヤマトでは男大迹大王が老齢により長男の勾大兄皇子(安閑天皇)が実質的な大王位に就いていた(正式即位は534年)。物部氏も麁鹿火に代わり同族の尾輿が勢力を強めつつあり、また、手白香皇女の皇子である志帰嶋王(欽明天皇)を擁立しようとする蘇我稲目が急速に台頭してきていた。ヤマトは政権内部に常に動乱の種を持ちながらも着々と直轄領である屯倉を全国に増やしつつあった。

毛野連合はいまだ地方政権としての強大な権力を維持していた。各首長たちも表向きは小熊を最高首長として纏まりを強めているかのように見えた。しかし内部ではすでに武蔵・常陸・上総・下総の首長たちがそれぞれの外交と政策を打出し、毛野連合の意向に従わなくなりつつあった。毛野がいまだ強大な連合機能として崩壊しないのは、各首長等がそれぞれの利権を守るため大国毛野の蓑を利用していることと、フロンティア気質ともいうべき東国人の独立意識、そして最高首長としての小熊の巧みな利害調停による連合運営にあったと思われる。

しかし磐井の乱鎮圧による磐井一族の末路とヤマトの中央集権の増大は毛野連合を構成する各首長には、より身に迫る危機として心中寒駆らしめる事態となっていた。ヤマトはやがて毛野に対して本格的な内政干渉をしてくることはヤマト自身を含めて自明の理であった。出雲・吉備はヤマトに征圧されてすでに久しく、尾張、越は一族をヤマトに送りこみすでに中央を構成する豪族となっていた。そして九州北部に強大な権力を誇った磐井の滅亡は継体22年(528年)、つい数年前のことであった。表向きは同盟関係を維持しているもののすでにヤマトに抗する勢力は毛野のみとなった。この時点ですでに連合の各首長たちは大和と毛野の二者選択を迫られていたのだ。しかしそれを身にしみて感じていたのは、他ならぬ小熊自身であったに違いない。 無論それは小熊から求めたものではなかった。それはヤマトと中央豪族による中央集権化による全国統治の必然であり、動かしがたい時代の蠕動であった。

そしてそれは思いのほか早く、もっとも恐れていたかたちで現実化した。安閑元年(534年)武蔵国の一族使主がヤマトの干渉のもとに武蔵国造の地位をもとめて毛野に対して反旗を翻したのだ。 武蔵国も四道将軍、大毘古命を祖とする歴史の長い地方政権であり、ヤマトとの繋がりを強固にするとともに、ヤマトの仲介による渡来人やその文化を採り入れることにより勢力を保ってきたが、強大化する毛野に抗しきれず、同盟という形で上毛野の傘下に入り毛野連合を構成する有力首長としてその生存の道を開いていた。

武蔵国はもともとの武社国が武社下・武社上の二国に分割したもので、「直」の姓を頂く笠原一族がそれぞれを統治していたが、毛野連合下では依然武社上の笠原一族が主導権を握っていた。現在の港区や世田谷区を根拠地として100mを超える墳墓を造営する権力を有していた。小熊の時代の首長は小杵である。一方の武社上の笠原一族も傍流ではあるが代々ヤマトに近侍として出仕し中央とのつながりを武器に権力を増大しつつあった。祖にはワカタケル大王の下で「臣」の姓を賜った乎獲居がいる。当時は使主が首長の座についていた。ヤマトはこの使主に目をつけた。傍流であるが主家よりも権力を強めつつも毛野連合のもとでは主家への従属に甘んじている武蔵笠原家に対して、ヤマトへの忠誠を賞賛し武蔵国国造の地位を確約したのである。むろんこれはもともとの国造である主家小杵にとっては反逆であり、武蔵の毛野連合からの離脱・抗争を意味する。小杵は同族である使主の討伐を決意し、毛野連合最高首長である小熊に討伐軍の派兵要請をする。派兵を拒むことは毛野連合の崩壊を意味するばかりか、関東の覇権そのものが使主一族に奪われることになる。しかし上毛野が派兵に応じれば当然のことヤマトとの武力対立は必至となる。



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ショート 毛野王国−4

4.磐井の乱


小熊が父の後をついで毛野連合の最高首長となってすでに10年がたとうとしていた。都はその後、弟国宮から磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に移っていた。男大迹大王のもと長年における畿内の混乱は収拾され、ヤマトは各地に屯倉をつくり畿内豪族連合の強化と諸外国に対する権威の復活を推し進めていった。

上 毛野君小熊10年の春、ヤマトからの使者が小熊の元に訪れる。使者の趣は、毛野連合に対する出兵要請であった。かねてよりヤマトと同盟関係にあった半島南 部の加羅諸国が新羅の度重なる侵攻を受けて危機に瀕していた。ヤマトは加羅諸国に対して鉄製武器や銅製品等の権益を有しており、同じく加羅諸国に権益を有 している百済からも新羅征伐のための派兵要請がたびたび来ていた。ヤマトは自らの権益を守るため、そして同盟国百済の要請にこたえるために新羅侵攻の大軍 派兵を決定したのだ。次第に威圧的になってくるヤマトの要求に毛野連合の首長たちも次第に不満や反発を強く感じ出したが、ヤマトより同盟の証として送られ る加羅諸国からの鉄器・青銅器は毛野の領国統治において重要な貢物でもあった。ヤマトが半島での権益を失うと言うことは、自らの両国支配の弱体化につなが ることを知っている首長たちもヤマトからの要請に渋々応えざるを得なかった。小熊は派兵了承を使者に伝える。分担兵力数は毛野の国力からすれば軽微なもの であった。毛野には東方の蝦夷を統治するという、ヤマトとの同盟当初からの盟約があり、多くの兵を蝦夷との境界線に駐留させていた。ここで無用の派兵要請 をすることで毛野連合の首長たちの反発を招くことを恐れたヤマトの配慮であった。 小熊は二千の陸兵を大和に向け進発させた。

しかし、上毛野の軍兵が進発して3ヵ月後、小熊のもとに驚愕すべき報がもたらされる。派兵した上毛野軍を含む近江毛野臣率いる6万の新羅討伐軍が、磐井率 いる1万5千の筑紫軍と筑紫の地で交戦状態に入ったというものだ。新羅の支援を受けた筑紫君磐井がヤマト軍の渡海を妨害し、近江毛野臣は筑前で立往生と なった。事態を重く見た男大迹大王が物部麁鹿火に磐井征伐の勅と軍権を委ねて毛野臣の軍勢を糾合し、6万を超える大軍をもって筑紫領に侵攻させる。磐井も また自国の影響下にある諸国の首長に出兵を促し、2万近い軍勢に増長した。地の利を生かして麁鹿火軍を各個撃破していく筑紫軍により戦況は膠着状態にな る。

このとき、磐井から小熊のもとに使者が訪れた。小熊の頭によぎるものは、宮での磐井との親交と磐井軍との連合による派兵要請である。この機を捉えて毛野が大和に向けて進軍し、主力軍が筑紫に釘付けにされているヤマトを東西から挟撃し瓦解させようとの提案がだされるものと思われた。

ことの機密性から、使者の謁見は小熊と数名の血縁首長との密会に近い形で行われる。事前に小熊より招集の掛かった首長たちも同様の目的と判断していた。確かにこの状況であれば、 満足な迎撃体制が摂れない大和に一撃を加えられるかもしれない。反ヤマト色の強い首長等はすでに勇み浮き足立っていた。しかし、ヤマトで数年を過ごしヤマ トの強大さを直にみてきた小熊にとってそれは全くの楽観論であり、また今の毛野には磐井軍のような統制も取れるものではなかった。召集された首長らととも に、使者との謁見が執り行われた。

しかし使者の口上は小熊をはじめ首長たちの不安・憶測とはまったく異なるものであった。

使 者の口から出た言葉は、ヤマトの度重なる要求に疲弊していく自らの領国の窮状と、麁鹿火の軍勢に含まれているだろう二千の毛野国の兵士たちとの交戦に到る ことを詫びることに終始し、筑紫に対する援軍や決起の要請は一切なかった。小熊はかつて友誼をむすんだ磐井と自らの兵たちの行末を案じながらも、事態を見 守るしかなすすべはなかった。

筑紫の戦は1年半に及んだ。磐井は強力な統制力で勢力化の豪族や軍勢を纏め上げていたが、時が経つにつれて寡兵である筑紫軍はヤマト軍に押されていくようになる。やがて磐井軍内でも有力首長らの造反や戦線離脱が相次ぎ、残された主力軍で筑後川を最終防衛線として麁鹿火と対峙した磐井は継体22年(528年)11月、ついに筑 後川の最終決戦で敗北した。記紀によると磐井は捕らえられて処刑されたとされるが、風土記によれば磐井は敗戦の後、耶馬渓の山中に逃れ行方知れずとなった とある。磐井の墳墓である岩戸山は墳丘長135m、北部九州では最大の大型墳墓である。磐井が生前に造営し、筑紫の司法機能を移設した政庁でもあったが、 磐井がここに永眠っているかは定かではない。磐井の子葛子はヤマトに対し、降伏の証として糟屋の屯倉を献上して連座を逃れた。現在の福岡県糟屋郡の地であ る。再び軍権が近江毛野臣に下賜され、毛野臣は新羅に向け出兵したが、兵はすでに筑紫の戦闘で疲弊し、兵力も激減しており、ほとんど戦果を挙げられぬまま 撤兵した。小熊のもとには筑紫での戦闘、新羅への渡海を経て七百の兵士たちが帰還した。七割近い兵が帰らぬ人となっていた。

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ショート 毛野王国−3

3.筑紫君磐井


小熊は都である人物と交流を持つことになる。小熊と同じくヤマトに出仕していた筑紫の王子磐井である。磐井は小熊より十歳近く年長であり、すでに筑紫の棟梁を継ぐべく帰途に着こうとしていた。物静かではあるが知性的な小熊に対して磐井は覇気を持って歳以上に大きく見える存在であった。 筑紫の国は現在の福岡県南部、筑後平野の大半を含み、邪馬台国連合崩壊のあと、ほぼその領域を継続するかたちで代々筑紫一族(筑紫君)が統治していた。筑紫の国は石人・石馬や装飾古墳などヤマトとは違う独特の先進文化を誇っていた。磐井の祖父の代より100mをこえる大型墳墓を造営する国力を有し、磐井の代には肥の国・豊の国もその影響下に収め、九州北部全域にその覇を唱えるにいたることになる。

磐井は男大迹大王が即位したころから度々都に出仕していた。筑紫一族も半島との交易で栄えた九州の名門ではあったが、度重なるヤマトの半島出兵に際して多大な犠牲を強いられてきていた。また、以前より新羅と親交のあった筑紫一族はヤマトの百済一辺倒の外交にも不満を持っていた。それでもヤマトとの武力衝突は避けたい筑紫王は自己の権益を護りつつヤマトとの有利な関係修復の道を模索していたものと思われる。男大迹大王の擁立に対して関係改善の機会と捕らえ、いち早く男大迹支持に回わり、ヤマトと有利に交渉を進めることを買って出たのはほかならぬ磐井本人であった。

磐井は豪胆な気性の持ち主であったが、自己と同じ境遇、同じ悩みを持つ小熊とは気が会ったようだ。また大国毛野の跡継ぎとしての小熊に、歳の差を越えて敬意を持って接した。

磐井を通じて小熊は同じ境遇としてヤマトに出仕している近江毛野とも出会うことになる。故郷の地と同じ名を持つ近江毛野に最初小熊は親近感を覚えたかも知れない。近江氏はもともと小国であり越の傘下に含まれていた。彼らに与えられた称号からもわかるように、小熊・磐井は主権国家の王を認められる「君」であるのに対して近江毛野は臣下を表す「臣」である。しかし男大迹王が大王になったことにより、近江毛野は大王の譜代の臣として急速に台頭してきた。近江毛野の態度の中にも譜代の臣であるという驕りがしばし見受けられたが、磐井には心底ではそれに対する反発も押さえ、それも受け止めてしまう包容力があった。磐井は近江毛野を同僚として受け入れていた。小熊もけして驕る人間ではなかったが、自分には到底持ち得ない磐井の度量に魅せられていったのだろう。

磐井は今回を最期の出仕として筑紫の地に帰還しようとしていた。磐井も老齢の父王のあとを継ぎいよいよ筑紫の最高首長の座に就こうとしていた。小熊は磐井から帰還直前の誘いを受けた。いずれ王位を継ぐ2人である。しかも倭国の西と東の果てである。首長となれば気軽に国外に出ることはできない。ましてやヤマトを無視して王通しの直接盟会など許されるはずも無い。一旦別れたら生涯会うことはない。二人は一晩酒を酌み交わし、自らや自国の未来を語りお互いの友誼を深め合った。短い期間であったが小熊にとって磐井との出会いは都での出仕中で最も印象的な出来事であった。

磐井との別れから1年の後に、小熊は急遽の帰還をすることになる。父王が病に倒れるという報を受け、男大迹大王の許可を得て小熊も上毛野に帰り父王の補佐を勤めることとなった。小熊の帰還に際しては、男大迹大王自ら宴を催して、大伴金村・物部麁鹿火・蘇我高麗、稲目親子など中央の錚々たる豪族たちの見送りを受けることとなった。これもなにより大国毛野といずれ上毛野の棟梁を継ぐべき小熊に対するヤマトの懐柔策の一環であった。



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ショート 毛野王国−2

 

2.男迹大王

 


各地方豪族たちはヤマトとの親和政策として、また後継者の皇族や中央豪族とのコミニュケーションのため子弟たちを都に出仕させることを常としていた。小熊も上毛野の最高首長を継ぐものとしてヤマトに出仕することになった。出仕といっても国力の違いにより、子弟たちの処遇には大きな差があった。天皇の近侍として直に宮に仕えられるものはまだしも、小国の子弟たちは中央豪族の家臣のごとく取り扱われるものも多く、またその期間も様々であった。大国毛野の御曹司である小熊への待遇は中小豪族の子弟等とは格段の差があった。

小熊が出仕した都は、新しく造営された筒城宮(つつきのみや)と言い、山城国(現在の京田辺市周辺)にあった。当時は越の王男大迹(継体天皇)が、ワカタケル大王崩御以降のヤマトの混乱に際して大伴金村に擁立されて大王位に即位していた。男大迹大王は507年に樟葉宮で即位し筒城宮・弟国宮と遷都を続け、526年に20年の歳月の後についにヤマトの中心とも言える磐余玉穂宮への遷都を実現する。

この時代の大王は現在の象徴天皇に近い存在だった。ほとんどの大王は強大な実権は無く、強力な豪族の後ろ盾のもとに即位することができる存在だった。国家の運営は彼ら大王の後ろ盾たる最大豪族を中心に中央豪族の合議制で為されていた。大王は決められた政策を承認し勅として布告することしかできなかったが、時の最高権力者たちも大王より発せられる勅によってのみ他の豪族をつき従えさせられるという相関関係であった。記紀などで見るような大王自らが政をおこなってきたような記述は、天武帝による強力な集権体制のもとで絶対天皇制確立のために装飾されたものである。

この象徴大王制ともいえる立場に唯一反目し、大王自身の権力を奪取しようとしたのがワカタケル大王である。大王は時の有力豪族たちが擁立しようとする兄弟・近親を次々と滅ぼし、自らの力で大王位に即位した。即位後も大王専制に反対する豪族たちを執拗に弾圧していった。これにより有力豪族が没落したことが、大王崩御の後の権力構造の混乱となっていく。それは中央より、むしろ地方豪族への統制力の低下や半島における倭国権益の低下において深刻であった。地方豪族のヤマト離反が相次ぎ、半島では加羅諸国に有していた倭国の権益が新羅・百済に次々と奪われていった。男大迹大王が20年も大和入りをしなかったために、ヤマトと男大迹大王との対立や2王朝並立抗争などが唱えられてきたが、むしろヤマトでは弱体化した中央豪族たちの危機感により混乱は早期に収拾されたものと思われる。むしろ中央豪族の意により、自己の基盤である近江・越・尾張の中央との連携強化と、畿内の大河川である淀川水系を押さえることによる周辺豪族の掌握等の政策によるものと思われる。

上毛野および関東の諸豪族は当初、男大迹擁立には反対、あるいは中立の立場をとっていたものと思われる。これは中央豪族として早くより東国に影響力を有し、上毛野氏とヤマトの橋渡し的役割を持っていた物部氏に配慮したためであるが、物部氏が男大迹王擁立の立場に変わったことにより、上毛野氏も小熊の父王がいち早く男大迹支持を打ち出し、他の首長の説得や反対する首長の討伐等による、関東における男大迹王の勢力拡大に貢献する。

小熊は大国毛野の後継者として、また関東における男大迹王支持基盤としての上毛野王の子弟としてヤマトに迎えられた。都での生活は他の地方豪族の子弟とは異なり、比較的自由な立場で宮の内外での活動を許されていた。まだ若者の小熊にとって、新しく都として造営される壮麗な宮殿や新政庁、中央豪族たちの館、そして近隣に群する、偉大な祖父の陵墓をはるかに凌駕する巨大な大王稜は驚愕するものであったに違いない。


 

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ショート 毛野王国−1

関東の古墳めぐりが好きである。古墳の被葬者やその時代についてあれこれ考える。ちょっと想像をたくましくしてストーリーを作ってみる。過去に作った原文を大幅修正して物語タッチに。歴史には素人なので時代考証も考古学的見解・歴史資料も無視したところがありますが、ご容赦を。オタクの知人から歴史考証も設定もまるでいい加減過ぎると批判を受け、いったん没にしたが、また少しリニュアルして再投稿。

ショート毛野王国−1


プロロ−グ


今から1500年の昔、関東に二世紀にわたり君臨した王朝があった。平将門の関東独立をさかのぼる400年の昔に現在の群馬県南部を根拠地に関東平野全域をその影響下においた毛野一族、そしてその宗主権を代々世襲した上毛野氏。

大小数千とも言われる関東の古墳群やその出土品は記紀の信憑性を裏付ける考古学的物証であり、毛野がヤマトとの深いつながりを持っていたことを立証している。しかし同時に関東全域から毛野の影響下にあったと思われる独特の出土品も発掘され、毛野の歴史がけして記紀のいうヤマトの属国、征東のための前線基地ではなかったことも明らかとなった。

上毛野氏およびその血縁諸氏族の名は記紀や続日本紀ほか多くの史書に地方長官や中央政府の中堅官僚として、また各地への遠征軍指揮官として、いずれもヤマトの発展に寄与した人々として登場する。

その中でただ一人、反ヤマト側の人物として、ヤマトに反旗を翻したとも取れるほどの悪意をもって描かれている人物がいる。それが上毛野君小熊である。


1.上毛野君小熊


小熊の生まれ育った毛野の国は、記紀によれば
崇神天皇の長男豊城入彦の東征により建国されたとあるが、事実は不明である。おそらくは弥生時代後期に開拓者として西より流れてきた氏族集団と、以前よりこの地を根拠としていた採集民族から発した氏族が融合を重ねることにより地域政治体として拡大していったものと思われる。

毛野地域は、現在の群馬県南東部の扇状地平野と栃木県南部の河岸平野の二つの纏まりを持っていた。ヤマト側の文献では毛野の地を上毛野と下毛野の二国に分離したとあるが、これは後世の装飾であり、その当時毛野の人々にはそれぞれの支配氏族の領地であり、ヤマトによって分国されたなどという意識は毛頭なかったと思われる。やがて上毛野を根拠地とする上毛野氏が宗主家として毛野全体を掌握し、ヤマトとの連合国家形成に至る。ただしヤマトとの関係はけして従属的なものではなくトラスト的連合体であった。上毛野国は依然周囲の国々を吸収併合あるいは同盟関係を締結して、下毛野・武蔵・相模・上総・下総をその影響下におく関東の大国にのし上がった。 また、八綱田・荒田別・田道など歴代の将軍による蝦夷征伐に名を馳せ、蝦夷・ヤマト双方から畏怖される軍事大国でもあった。

上毛野君小熊は今日伝えられているような粗暴な大男ではなく、むしろ繊細な面も持っていた若き王であったと想像する。彼は御諸別王より上毛野の最高首長を受け継いだ大荒田別を祖にもつ上毛野一族の直系であった。もちろん武人の家系を継ぐものとして、武人の嗜みは周囲の首長以上に求められたであろうし、実際に兵を率いて戦いに赴いたこともあっただろう。また宗主家の立場としての力量も備えていた指導者であったと想像する。

ヤマトの史書には中華思想が色濃く反映している。敵対するもの、辺境の人々を著しく見下す
記述が多い。小熊と言う名前も実名ではないだろう。小熊・小杵・
磐井など大和に対峙するもの
を故意に卑しく表現していると思われる。しかし彼らの実名を知るすべもないのでここでは史書
に書かれた表記を使うしかない。

毛野国は5世紀初頭から中葉にかけて最盛期を迎える。小熊の時代よりも半世紀以上ときを遡る。現在大田天神山と呼ばれる日本屈指の巨大墳墓は、二重の周溝を構えその全長は360mに達する。、この規模を超える墳墓は大和・河内の天皇家一族の陵墓と、当時大和に次ぐ権力を有していた吉備国の首長稜のみであった。太田天神山の被葬者は大荒田別とも、その子竹葉瀬ともいわれているが、小熊の時代にも、いまだ天神山は白い葺石に覆われた三層の巨大モニュメントとして、縄文海進の名残で当時湿地と毛細河川に覆われた北関東の地にその威容を誇っていたと思われる。

小熊の父の名は伝えられていない。小熊の父もこの大国上毛野の宗主家の王として君臨した大首長であった。しかし、小熊の父の代になると日本全国で有力首長の独立傾向が見え始める。ワカタケル大王の専制政治の崩壊を機に徐々に地方権力を統制化におこうとするヤマトの方針に反発する各地方のヤマト連合体を構成する首長たちの反乱が多発するようになる。

関東の大国毛野も、上毛野一族を筆頭に下毛野氏・朝倉氏・檜前部氏・車持氏・有馬氏等の血縁氏族が上毛野君を宗主家とした連合を形成していた。個々の首長は独立した領地を持っており、上毛野君はあくまでも彼らの調停役としての宗主家の立場であり、各氏族の意向を無視した独裁政権ではなかった。彼らは時には総主家に服属し、あるときは反発しながらもそれぞれの利権確保のために大国毛野の構成する氏族となり、宗主家を盛りたてていた。この点ではまさにヤマトと同じ国家形態が坂東の地にも存在していたわけである。やがて各氏族の勢力が拡大するにともない、彼らにより独自志向の強まることは必然であり、またヤマトも軍事大国上毛野の強大化と独立化を恐れて、連合国家である毛野の分裂を画策しつつ関東各地の首長に謀略の手を差し伸べてきていた。

小熊はこのような時代に若くして父の後を継ぎ、上毛野傘下の首長の統制と同時にヤマトの圧力から自立しようとする毛野の族長たちに挟まれて苦しい舵取りを迫られることとなる。

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1.PRESAGE U31
愛称KARANO号
  :いまや歴史遺産となりつつある3.5L/フルタイム四駆。最近は金欠でタコメーターしか見なくなった我が家の軌道空母。2002年モデル。

2.MR−4
  :GIANTのロングセラーフォールディングバイク。18年間コンパクトスポーツの頂点に君臨した名機も2017年モデルを最後に絶版となる。2010年モデル。

3.SOMA SAGA『嵯峨』
  :米国ソーマファブリケーションズのツーリングフレームに格安パーツを買いあさって組み付けたクロモリツーリングバイク。年式不明

4.トランジットセブン
  :今は娘の愛用となっている、BSの20インチフォールディングバイク。オヤジにサイクリングすることと、カスタムすることの両方の楽しさを教えてくれた逸材。2007年モデル。
  
5.ALPENCHALLENGE   AC02
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