先日、TVで本能寺の変と明智光秀のことを放映していた。最近TV等で明智光秀や妻熙子のことがよく出てくるので、ふと記憶をたどって綴ってみたりしたくなった。


昨年のことになるが、京都出張の合間に近江坂本を訪れた。古代史ファンではあるが戦国時代もいささかミーハーなのである。特に戦国武将として興味があるのが
惟任日向守こと明智光秀公である。判官びいきといえばそれまでだが、その生涯からして何か気に掛かる人物だ。光秀公の全盛期から滅亡までの軌跡の残る坂本はぜひ訪れたかった。そして隣接する大津にはかつて大津宮が存在し、天智天皇や大友皇子縁の史跡も多い。大友皇子弘文天皇)も古代史の中にあっては興味をそそる人物であり、自分としては一石二鳥のロケーションでもあった。


大津・坂本でぜひ見たかったところが弘文天皇陵・大津京跡・坂本城址、そして
松禅院であった。

朝8時に湖西線大津京経由京阪で三井寺駅へ。大津へ来たのだから三井寺は見ておこう。琵琶湖疏水の隧道入り口を通り裏から三井寺(園城寺)へ向かう。琵琶湖疏水は灌漑や給水だけでなく、かつては近江から京都への水上輸送の動脈としても活用されていたと馬の首?いう。今はトンネルの中は船では通れないのだろうが、疏水くだりのツアーがあればぜひ参加したいものだ。

三井寺では観音堂や金堂等をまわる。残念ながら行った時点の金堂はまだ改修中であり、全容が見られなかったが、三井寺の名の由来である天智、天武、持統の三天皇の産湯に使われたと伝えられている井戸は見ることができた。

三井寺から歴史散歩定石の歴史博物館をさらりと見て弘文天皇陵へ。地図ではすぐだが、近道が実際には警察学校の敷地内を通っており、結局市役所正面から大きく迂回して警察学校のすぐ裏の弘文天皇稜へたどり着く。天智天皇が遷都し、大友皇子の二代の都が大津宮であったが、壬申の乱以降廃都となってしまった。大友皇子も壬申の乱で大海人皇子に敗れたことにより大海人皇子が天武天皇となった後に編纂された日本書紀の中では滅びるべくして滅びた皇子のように描かれているが、果たして勝者の歴史は本当であろうか。確かに血筋としては劣るものがあったのかもしれないが、天智天皇が実弟(一説には違うという説もあるが)大海人皇子をさしおいて後継者としたのは息子かわいさだけではないと思う。ある意味天智天皇が目指した天皇家と大津市国家のあるべき姿を理解し継続できる資質があると天智天皇が認めたからこそ後を託されたのだろう。

高き理想に向かい急進的・先進的過ぎたが故に時代から抹殺されたと思うとまさに悲劇のヒーローと思えてくる。単に大王位の争いだけなら、先手をとって6万の朝廷軍を組織した大友皇子が、僅か3千から進軍した大海人皇子に敗れるほうがよほどミステリーだ。実際に大海人軍を指揮した高市皇子天武天皇の長男、後の太政大臣で長屋親王の父)も魅力的な人物ではあるが、乱の進行を見ていると味方の陣営の中にすら大友皇子と大津京の理想を阻もうとする力が働いているように見えてならない。

感傷に浸りつつも次の予定地である大津宮跡を目指す。が、ちょっとその前に寄り道を……。


ガイドを見るとちょっと珍しい皇子山古墳前方後方墳の皇子山古墳が近くにある。古墳ファンとしてはやはり寄ってみないと……。皇子山古墳は閑静な住宅街の奥の小高い山頂にある。もっとも登ってみると古墳のす
ぐ裏にバイパスのICがあるのは興ざめだった。規模としては決して大きくはないが、琵琶湖を望む山頂のモニュメントは大津京以前にこの地を支配していた豪族の威勢を感じる。まあすぐ裏を車がびゅんびゅん走られたのでは気の毒ではあるが……。


さて、一気に山を下り大津京跡へと足を運ぶ。歴史博物館で情報を仕入れていたので期待はしていなかったが、本当に小さな区画だ。もちろん発掘されてい
るのは部分部分ではあるが、跡地からかつての内裏や都大路のイメージは浮かばない。僅か5年の都ではあるがやはりさびしさは禁じえない。しばらくそこで休憩(通り過ぎる近所の人は変なオヤジがいると思ったかな)

時間も昼に近づいてきた。近江神宮前駅から京阪で坂本駅に。2両編成の路面電車みたいな車体、駅としては僅か5区間だが、まさに170円で乗れるタイムマシーン。時代は一気に900年も下ってしまうのだ。いよいよ本命目的の光秀公縁の地めぐりへ……。


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