『二子塚古墳』は中型の前方後円墳だが保存状態はよい。周囲に大きな石材が無造作に散らばっているが古墳との関連性は不明。
観音塚古墳は終末期の前方後円墳で前方部が突出して大きい。
考古資料館の方に解放されている巨大な石室に入れるということで懐中電灯をお借りした。
資料館の方も同行されたが、国指定の史跡であるので、毎朝異常がないかチェックしているとのことだった。今回の探訪では、資料館や博物館の職員の方々がただそこにいるわけでなく、文化財保全のためにいろいろされていることがよくわかった。
博物館や資料館は『撮影NG』というところが多いが、この上毛野の地においては、特定の撮影禁止展示を除けば、「撮影フリー」になっている。毎回「写真撮ってもいいですか」とお伺いをたてるのだが、「ダメ表示場所以外では、フラッシュ焚かなければご自由にどおぞ」という感じである。どこの施設もとても開放的である。
周辺を回るため、また艦載機で出撃する。積んできて正解だった。
今は埋め戻されて何もない『三ツ寺遺跡』跡。これがかみつけの里の一部として完全復元されたら、まさにビッグミュージアムになるだろうと思われる、他とは群を抜いたスケールの豪族館跡である。この地の豪族は『車持氏』という見方も出ている。かつてこの地は榛名山大火で大きな打撃を受けたというが、その後も車持氏は衰退することなく、後に『東国六腹朝臣』として貴族社会の華を咲かせることになるわけだ。まあ、この辺じゃクルマが必需品というのは今も昔も変わらないということか。
薬師塚は西光寺の境内にあるため、他の2基のように復元整備はされていないが、本堂の裏手から後円部に上がると、埋葬されていた舟形石棺が展示されている。ご本堂に手を合わせてからいくことを忘れないように‥‥
よくテレビ等でも紹介されている前方部に復元された埴輪はそれぞれ儀式の様子を再現している。ここは虫や蛇などの心配はなさそうなので、もっと暖かい季節に訪れたいものである。
かみつけの里博物館から総社古墳群に向かうルートの途中に上野国分寺跡があったため予定外にに立ち寄る。ここにはかつて60mの七重塔があったという。60mといえば東寺の五重塔より大きい。8世紀にこれだけのものが築かれるのは、やはり上毛野が古墳時代以降も東国の中心文化発信地であったのだろう。
さらにルート上には『山上碑』に関わりのある『山王廃寺跡』があるが、時間がなく今回は断念。廃寺と聞くとヨーデルが浮かんできてしまう。その『ハイジ』じゃないだろう。でもまんざら無関係でもないかも。仏教の浸透は『トライ人』に負うところが大きいのだから‥‥
群馬県史によると、宝塔山古墳は『彦狭島王』墓、蛇穴山古墳は『御諸別王』墓の候補とされていた時期があったようだが、両王が4世紀の人物とすると時代が全く符合しないようだ。
宝塔山古墳から北西500mほどのところに『愛宕山古墳』がある。石室開口部はすぐわかり立ち入りはできるが、入口は埋もれていて砂埃だらけになる覚悟が必要。雨天や雨上がりでは泥だらけは必至だが内部は一見の価値がある。
山王古墳まで足を延ばすつもりだったが、ここも時間的に割愛せざるを得なかった。
資料館に戻り艦載機を収納。上野総社神社に向かう。上野国549柱の神々の総鎮守で、県内でも最も由緒ある社の一つである。上毛野氏の祖『豊城入彦命』の創建と伝えられるが、ここを訪れた理由は、かの『上毛野君小熊王』が「社殿を改築し郷名に因み『蒼海明神』と称え里人の崇敬を集めた」とあるからである。
『上毛野君小熊』の名は、史書に初めて『上毛野君』の称号が付いた王である。『君』はカバネの中では最も高く、畿外で一定の規模と大幅な自治権を認められた地在豪族に賜る地位である。しかしそれはあくまでヤマトの支配制度の中で存続するもので。ヤマトの影響外の独立主権に対するものではない。
小熊の系譜は不明である。竹葉瀬を祖とする上毛野氏の直系ではあろうが、父母も子も記されてはいない。武蔵国造の乱ではヤマトに敵対したかのような描かれ方をしているが、総社神社の由緒のように、上毛野国内では民衆にも支持された王であったともとれる。
いまの社殿は戦国時代以降今の地に移されたもので、それ以前のものも小熊時代のものではないだろう。県内有数といわれるパワースポットにお参りし、小熊王にあやかり土産にお守りを買う。