小櫃川の堰痛と姉ヶ崎公園睡眠不足の朝。天気は雨のち晴れ。
ぎりぎりまで出かけるのをためらったが、結局出掛けた。
10:30に袖ヶ浦公園をスタート。ここは庭園や郷土資料館があり、是非寄りたいところだった。時間があれば、帰りに寄ろう。

地図もなく方角だけを頼りに行くから、行き当たりばったりの道になる。小櫃川にかかる中郷橋を渡ると、第一のポイントがすぐ見える。


『牛袋浅浅間神社古墳浅間神社間神社古墳』。
墳丘長は100m弱であったという。説明には古墳のことは書いてなかった。各地にある浅間社と同じような縁起が書かれていた。
前方部は消失し、後円部も上部はかなり削られている。





ここ高柳銚子塚古墳から西へ、10分もかからない内房線脇に、周辺の残土の盛り土と見分けがつかない程度に、残土(というのがふさわしい)が残っているのが、ロスト古墳?『高柳銚子塚古墳』。但しこちらは、さきたま古墳群の『若王子古墳』とは違いわずかに残っているだけロスト古墳とは言えない。
復元時の全長は142mとも130m以下ともいわれ、定かではない。もし142mとすると『内裏塚古墳』に次いで県下第2位の巨大古墳だったことになる。推定長のミニマム110mをとっても県内ベスト10入りは間違いない。




史跡至徳堂の碑公園みたいに整備されているのかと思ったら、田んぼの真ん中で、登る道さえない。
中央に碑のようなものがあり、そこまではかろうじて畦道で行ける。当然この古墳に関するものと思い行ってみたが、あったのは『至徳堂の3碑』というもので、1817年に建てられた郷学の教場に関するものだった。
ここは古墳としては全く無視されている存在なのだ。

この後は一昨年6月の『上海上・須恵国古墳めぐり』(http://karano-garage.doorblog.jp/archives/1919378.html
と同様のルートとなる。


『内珠奈さんの碑裏塚古墳』は墳丘長144m。内裏塚古墳群の盟主墳である。もう3度目になるので、珠名さんに挨拶だけ?して去る。

今回の内裏塚古墳群でのミッションは、前回「薮っ蚊・蜘蛛・スズメバチ」で断念した九条塚古墳と稲荷山古墳内への進入(侵入じゃないよ)である。古墳の主たちの出迎えを避けるのは、やはりこの時期しかない。





『三三条塚周濠条塚三条塚前方部古墳』は周濠の一飯野神社部が飯野陣屋の外濠として残っている。陣屋内にある飯野神社の裏手から三条塚後円部に入る。
墳丘自体はかなり破壊されているが、前方部の周濠は比較的残されていた。


『九条塚古九条塚古墳全景墳』も遠望にとどめて『稲荷山古墳』に向かう。
内裏塚古墳群もさきたま古墳群同様大型盟主墳間は歩いて廻れる距離だ。築造領域がさきたま古墳群ほど密集していないのと、築造年代が広いという違いがあるが、その古墳の規模・数のどちらもさきたま古墳群を凌駕していることはあまり知られていない。





稲荷山古墳全景や超大国毛野を牽制する為、ヤマト中央の権勢をバックに武蔵に君臨した一族。片や上総・安房にいくつも成立した地域小国の一盟主なのに何故。
現代人の感覚がうむ誤認識か。どちらも序列は『オミ』だからね。かわらなのいか‥‥。
もし内裏塚古墳群で稲荷山鉄剣みたいなものが発見されたら、書いてある内容は同じようなものなのかもしれない。





稲荷山古墳後円部閑話休題。『稲稲荷山古墳周濠荷山古墳』も荒れ放題だ。特に鞍部が大きく削られているが、かつてはここに民家がたっていたらしい。
ここも一部に周濠の跡が残されている。
田畑になった二重の周堤を含む墓域の総長は200mに達する圧巻である。
しかし九条塚古墳も稲荷山古墳も、中はジャングルである。遺跡の現状保存は重要だけど、「史跡」なんだからもう少し整備してくれてもいいんじゃないかね。



東京湾観音さま1て、富津まで来たらまた観音様である。牛久大佛様に行った後に、やはり東京湾観音の良さを再認識した。
今回もまた立ち寄る。車・オートバイも含めると7〜8回目になる。東京湾観音に上る専用道路の途中に、今は使われず廃止になったトンネルがある。ここは雄蛇が池と並ぶ有名な心霊スポットであるが、不吉なことに縁起を担ぐオヤジとしては、写真を撮るのもはばかるので紹介のみにとどめる。(というかプチクライムに必死でそんな余裕のないところにある)





観音様頭部腹の展望東京湾観音さま3東京湾観音さま2京湾観音も以前紹介しているので割愛する。
今日は外人さんのツアーがバスを連ねてきていた。
リオのキリスト像やボリビアのマリア像というわけにはいかないが、慈愛の深さではまけんとよ。そしてこのルックスでも‥‥

佐貫城址全景後に、ここまで来たのだから佐貫城に寄っていく。
今回の真の目的は古墳や観音様ではない。佐貫のとある寺院に行くこと。そして自己のルーツをみることである。
祖父の葬儀の時に、祖父方の実家は代々この地にいて、その祖先は徳川譜代の武家の家柄だったと、親類に聞かされのは、あのドラマ『ルーツ』の反響のルーツ探の一大ブームが終息したたころだったと思う。
同時にわけがあり、それを調べてはいけないとも言われたのを覚えている。その理由もすぐわかったが、今となっては調べようとしない口実となってしまっている。その原因はもう80年近く以前のことだ。



調べ佐貫城址入口た寺に行って古い墓を見ると、同性の名前がいくつも記されていた。
ここが先祖が眠る地で、この同性の被葬者が先祖にあたる人々かは過去帳でも持ち出して調べなければわからないが、とりあえず江戸時代から続いている同性の墓に合掌。
これ以上あえて調べる必要もないかもしれないし、もともと是が非でも知りたいという思いもない。そう信じるだけだ十分なのかもしれない。




空堀跡して、佐貫城二の丸その祖先と縁の深い佐貫城は一度は見てみたい古城であった。先祖がここに登城していた武士であったわけではないが、この城とは因縁があったようだ。
真里谷武田氏が築いたこの城は、武田氏衰退後は里見氏の属領なり、一時は本城となった。近世には内藤氏・松平氏・柳沢氏・阿部氏と徳川譜代が領主を務める。




城は主石垣本丸跡本丸奥からの展望を換えながら幕末まで存続した。
中世の堅固な山城ではあるが、近世になって手を加えられているのか、石垣等が随所に見える。
当時物見やぐらがあった頂の展望台からは、東京湾観音のある大坪山と浦賀水道が望めた。
腰痛もひどいのでとにかく不整地歩きは辛い。時間もあって城の隅々を見られないのは残念。完全攻略ならず。


須恵国再びルート日の走行 75.6km
 迷い道や腰痛・睡眠不足休憩なんかで、結局公園に戻ったのは17:00になっていた。
公園散策はまたの機会としよう。
とにかく眠い!!




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