青掘駅から『内裏塚古墳』の威容は、容易に視認できるはずであった。見渡せるのは房総特有の断層隆起などによりつくられた小山である。
とりあえず内裏塚に向かう。
内裏塚前方部より総の縦走尾根の麓に点在する小山群。そのひとつが内裏塚であったことに気づくのは、かなり目前になってからだった。小山と見分けがつかないほど大きい。軸長144m、関東でもベスト10に入る巨大墳丘は圧巻である。
後円部東側から後円部に上る。頂上は有に神社ひとつが入ってしまうくらい広い。
中央部に内裏塚の碑、北東部の隅に『珠名冢碑』がある。
内裏塚後円部頂上恵(周准)の珠名さん。奈良時代の人である。歌人高橋虫麻呂の歌にうたわれる美女である。この歌の内容からは、奈良時代の絵画に出てくるような美人像は浮かばない。すがる蜂に例えられる容姿は現代人のグラマー美女感覚と同じである。遊女っぽい性格は、同時代の真間の手児奈とは対照的だ。(男をめろめろにしてしまうという点では、手児奈も容姿・スタイルは珠名とタメだったとオヤジは思っている)
内裏塚前方部横より後円部を円部から前方部へ向かう。
古墳の上を歩いている感覚はない。山を歩いているようなものだ。この様な感覚を味わえる古墳は関東でもそういくつもない。須恵の国造に連なる首長墓だろう。さきたま古墳群にさえこれだけの規模の墳墓はない。小国ながら貿易で栄えた須恵国の国力が窺える。

三条塚古墳名さんに吸われるならいざ知らず、からだ中を藪っ蚊に吸われて退散。
三条塚に向かう。『三条塚古墳』、内裏塚から直線距離で700m弱。軸長122mは内裏塚古墳群では次席である。6世紀後半の築造といわれ、毛野に替わりさきたま古墳群の一族が、関東に覇を唱えようとしていた時代、須恵国の盟主も拮抗した力を持っていたということか。

飯野陣屋周濠も残る周濠は、古墳に付帯するものではなく、江戸時代の陣屋跡である。後円部東側から墳丘に入ることができるが、更なる藪っ蚊とくもの巣の抵抗を受け、蜂まで援軍に来られたので突入を断念。攻略は冬を待つしかないようだ。二重の周溝に囲まれていた当時の全長は190m以上で、全長では185mの内裏塚より大きい。

九条塚後円部頂上いて九条塚前方部全景『九条塚古墳』に行く。ここも東側から後円部墳丘に上る。
ここにも内裏塚と同じ碑がある。周りには石室の積み石に使われていたような石が散乱している。軸長103m。6世紀中葉の築造とされ、三条塚同様、二重の周溝に囲まれていたらしく、周囲の道が名残を留めている。

弁天山石室弁天山古墳塚から市役所通りを経由して、大貫の弁天山古墳に行く。富津市役所大貫連絡所の敷地内にあり、石棺安置施設を含めた復元整備がされている。整備される前は、砂状の盛土のため原形をとどめていなかったようである。
墳丘頂上からは、浦賀水道と相模湾が一望できる。

東京湾観音天山古墳の南側の丘陵地帯にある大坪山には、東京湾観音様が立っている。最近コースの中に毎回入れているプチヒルクライム。今回は海抜120mの東京湾観音拝観コース。飯岡灯台の倍の標高差だ。きついかと思ったが、最強36Tを使うことなく、ノンストップでいった。仏へ近づくための道?である。
『東京湾観音』。この観音像は、今からおよそ1500年前の‥‥違うだろ!!
建立は昭和36年。同世代なんだなぁ‥‥。高さ56m、白亜の救世観音。

仏はユニセックスというものの、どう見ても女性である。しかもなかなかの美人である。
内部1内部2二の腕内部音様の胎内は20階建てで、螺旋階段で上って行く。途中には十二支守り本尊と七福神観音さま頭部からの展望がおまつりされている。
所々に外に出る展望部や別区画の階段があったりする。宝冠の部分が最上部の展望部は海抜170mほどだが、眺望はすばらしい。スカイツリーも見えるとのことだが、生憎今日は見えなかった。富津岬と須恵の国を一望する。

富津岬展望台京湾観音下で昼食を取って、富津岬へ行ってみる。
富津岬の展望台。久々に上ってみる。富津岬はここで切れて、沖合いに第一海堡を望むことができる。
おかしいなぁ。子供のころの地図は第一海堡は地続きだったし、大潮のときは歩いて渡れたはずだったと思うのだが‥‥

富津岬から、再び青掘地区に戻る。
稲荷山古墳稲荷山古墳周濠跡の探訪は『稲荷山古墳』。6世紀後半の築造で、軸長は106mだが、二重周溝の全長は200mを超えて内裏塚古墳群中最大である。説明看板の横から墳丘中央部に入っていけるようだが、やはり内部探訪は冬を待つことにする。
亀塚古墳後に訪れたのは、『青木亀塚古墳』。6世紀終盤〜7世紀初頭の築造とされるが、古墳らしいイメージは少ない。他の同規模古墳と比べて、高さがまるで低い。削られたからとも、古墳自体が未完だからだとも言われているようだ。
側面が公道となっており、容易に立ち入ることができるのだが、蜘蛛の巣が進入を拒んでいる。天候も不安定になってきたので、最終ポイントの古塚古墳も含めて、捲土重来を期す事にする。

姉ヶ崎帰還後のコーヒータイムを終えて、姉ヶ崎公園に戻ったのは17時だった。
千葉県には大型の古墳が多い。特に内裏塚古墳群は、規模で言えば埼玉古墳群と拮抗している。さきたま古墳群の盟主は、ヤマトの力を背景に、その地にやってきて一大勢力を築いたという。房総の豪族も、時期こそ異なるが土着民ではないだろう。そこには、高い航海技術を駆使して、貿易や新天地を開拓する海人族の影が見え隠れする。
房総の諸豪族たちは、さしずめ自由貿易という海の民共通のイデオロギーの中で、協力し合いヤマトからの圧力も柔軟に受け止めて、小国家群ながら毛野・武蔵に対抗する勢力を保っていたのだろう。

須恵の国ルート日の走行107.5km

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