たまの日曜休日。富士神社古墳全景
夕方に暇が出来て久々のTS−7出陣。今回は趣向を変えて北に。北区周辺のスポットを散策する。まずは前回の東京古墳めぐりで行きそびれた富士神社古墳を 目指して都内を北上する。

問通りから谷中を抜けて不忍通りから本郷通りを左折。富士神社はそこからすぐの裏通りにあった。富士神社は寛永5年に現在の場所に移され、富士塚といわ れた小高い塚の上に社殿が建てられ、富士山信仰の場所として知られている。この富士塚が富士神社古墳なのだ。
広い境内の奥の社殿のある塚が前方後円墳といわれ富士神社古墳後円部ている。早速拝礼して登る。社殿のある場所は狭い。奥の少し下がったところに小さな広場がある。社殿のある場所が後円部頂 上でこちらの広場が前方部になるのだろうか。

かなり破壊されているようで全体像がよくわからない。どこかに看板でもないか探す。富士山 信 仰についての案内板はあるが古墳の案内はない。よく読むと“一説に前方後円墳とされている”とある。

ここは古墳としての史跡指定もさ れて いないようだ。データによると墳丘長45m、後円部高さ5.5mとあるが築造時期は不明のようだ。発掘調査もされていないのだろう。前方部より後円部(たぶん)
人工の山は山でも富士山信仰の目的で造られたと思われているようだ。都内最大125m(現在の測量値では106mとある)の芝丸山古墳でさえ一見すると古 墳には見えないのだからしょうがない。知られざる古代スポットという感じだ。

富士神社を後にして、次に上中里の平塚神社に向かう。富士神社から10分程度だ。もちろん参拝が目的ではない。この平塚神社一帯が豊島氏の居城である平塚 城址であり、その一角に甲冑塚古墳という直径40mの円墳があるらしいのだ。

平塚神社平 塚神社。縁起によると、八幡太郎源義家が奥州征伐の帰路にこの地を訪れた際に領主の豊島近義に鎧を下賜し、 近義はその鎧を埋めて塚を築き城の鎮守とたとある。その塚が甲冑塚とよばれ、平らなために平塚と呼ばれるようになったのだそうだ。

拝礼して境内を散策。城址も古墳も表す案内板も何もない。社殿のすぐ裏が少し小高くなっている。これが古墳かなぁ‥‥古墳?
立ち入り禁止なのでとりあえず外から写真を1枚。ほとんど高さがない。本当に平塚だ。
そのほかに平塚城の遺構でもないか見て歩くが、境内からは それらの痕跡は見当 たらなかった。

平塚城。鎌倉から室町時代にかけての武家、東京23区のひとつにも名を残す豊島氏の居城である。最後の当主は豊島秦経。秦経の時代には練馬城・石神井城を 含む東京北部一帯を支配した大豪族だ。
平塚神社TS-7文明9年(1477年)、敵対関係にあった豊島秦経と太田道灌は互いの居城を攻略すべく進発。両軍は江古田沼袋原で遭遇、 野戦となった。大軍で挟撃した秦経が一度は道灌を撃退したが、奇襲による道灌の反撃を受けて石神井城に退却。同城も包囲されて落城。照姫伝説の悲話を今に 残す。その後秦経は本拠平塚城に篭城するが翌年に支えきれず落城。再起を期して小机城に敗走したがその後歴史から姿を消す。

平塚城の規模は不明だが、石神井城と同等かそれ以上の規模を有していたと思われる。遺構等があるらしいがやはり不明。飛鳥山に博物館 があるので行って見ればわかるかもしれない。時間は17:00近い。‥‥だめかな?
神社を出る際にすぐ裏手でなぞの看平塚神社となり板と遭遇。何の発掘をしているのか?城郭の遺構か、それとも古墳の埋葬物か?この平塚城址とほぼ同じところに律令時代の豊 島郡衙もあったらしい。いろいろ発掘のネタがあるようだ。とりあえずすぐ傍の飛鳥山まで‥‥






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