古石神井川ラインくだり?で上野まで戻ってしま幻の環3っ た。ここまできたらついでに行きたいところがあるので足を延ばす。
小日向の獄門橋。不気味な名前である。いつ頃まであったのかは不明。庚申橋という名前は残っているようなのだが。
春日通を北上し、小石川5丁目の交差点で暫し休憩。ここも昔の遺構?である。
まぼろしの環状3号線。東は辰巳から三つ目通り、牛島より言問通りとして谷中まで。西は曙橋から、外苑東通りとして六本木ヒルズの横を抜けて赤羽橋、芝丸 山古墳の前 方部丘陵を削っ獄門橋付近?て浜松町まで。それら現道路をつなぎ合わせて総称を環状3号というのだが、その東西を結ぶ道路計画が中断されたまま、一部 残っているのがこの通り。ここも2〜3週間後には桜の名所と なるところ。

さて、目指す獄門橋は小石川5丁目交差点のつんのめりそうな急坂を下り更に左折した先にあったという。
そこは現在はメトロ丸の内線の操車場になっている。左折して操車場のトンネルを抜けると“切支丹坂きりしたん屋敷跡”に通じる。橋はその袂にあったという。昔3人の盗賊がそこでさらし首にされたことが名づけられた橋は、地下鉄工事ととも になくなってしまったのだろう。
坂の上には切支丹屋敷跡の碑があった。今は閑静な普通の住宅地である。

さてさて、まだ時間があるのでまた北上することにする。とにかく裏路地を抜けて伝通院から小石川植物園横に。榊原伊織がいたところかな?しばらく行くとい きなり吉弥生の楼閣?野ヶ里の楼閣みたいなものが出現。さすがに文京区は弥生の町‥‥と思いきや、消防署であった。火の見櫓にしては変だな。

とにかく更に北上。文京区は急坂が多い。市街化される前は奥深い山だったのだろう。千石から山手線に掛かる橋を越え庚申塚に。じじばば銀座(失礼!)の裏 手を抜け、明治通り・元の石神井川を越え、自衛隊駐屯地を抜けて北上したところでまたまた発見!富士塚である。

十条富士塚と標された富 士塚は 大地の上にいきなり小高く聳えている。ここも駒込の富士神社同様、富士講の拠点だったようだ。江戸時代には市内のいたるところから富士山が見えたと同 時に、いたるところに富十条富士塚士 塚があったらしい。例によりここももとは古墳だったようだ。
更に北上して赤羽へ。赤羽で昼食。過ぎてから気がついたのだが、赤羽にも稲付城という城址があったらしい。戻るのも面倒なのでまたいつか来よう。

帰路は新荒川大橋から荒川 サイクリングロードを下る。荒川土手に出たところに治水資料館があるので立ち寄る。現在の荒川は人工の放水路である。20年の歳月を要し昭和5年に全通し た現荒川は幅500m、岩淵水門長 さ22kmの大人工運河である。旧水路の隅田川を隔てる岩淵水門は大正13年に竣工した。
現在は下流300mほどのところに新水門ができて、旧水門は都選定の歴史的建造物として保存され、北岸は中之島(水門公園)と呼ばれる島状に残されてい る。こう なったのはつい最近のはずだ。若いころは戸田方面からの帰宅に近道としてよく車でこの水門を通った記憶がある。
現在は新水門から対岸に渡れるが、今は歩行者と自転車のみ通行可となっている。今となっては車通行止めは逆にいいことだ。

荒川サイクリングロードはまた強い向かい風である。今回は風に逆らわずローギアでゆっくり進む。巡航速度は16〜18km/1h。意図的に速度を抑えたの で、昨年2月に笹目橋から南下したときよりははるかに楽ハープ橋で ある。例の保坂由佳を聴きながら、ママチャリに抜かされてもひたすらのんびり走る。ノンストップで木根川橋まで南下。子供のころの木根川橋は現在より 100mほど上流にあり、木造の橋だった。さだまさしの歌うあの木根川橋である。
ここから見る久々のハープ橋が綺麗だったので1枚。葛飾ハープ橋は首都高中央環状線の橋である。中央環状線は四ツ木まで綾瀬川東岸を南下するが、このハー プ橋により綾 瀬川を斜めに渡り、合流する中川と荒川のいわゆる“中土手”を通って清新町まで一気に南下し再び中川を渡り湾岸線に合流する。
ハープ橋は荒川を横断する橋ではないので荒川の橋としては取り上げられないことが多いが、荒川土手から見える橋としては最も美しい橋のひとつだろう。

小松川公園まで来たのでここから荒川と分かれて家路に向かう。ここから河口までは何回も行っている。帰宅はpm4:30。今回は結構無計画ながら楽しめ た。

本日の走行64km。久々のK点(50km)越えだった。
本日のお土産 飛鳥山常設展示案内・北区の水ものがたり
2冊で1,000円也

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音無川から不忍池のルート河川争奪?
滝 三幼稚園⇒ゲーテ記念館⇒霜降商店街⇒田端銀座⇒よみせ通り⇒蒲生君平の墓⇒池之端三丁目

ほぼ谷田川・藍染川ルートに沿って南下したよう だ。

旧川床








但 し、古石神井川がこれら近世の河川のルートと同じだったかはわからない。
当時の川床は深い堆積の下にうずもれてしまっているのだ。

不 忍池
江戸時代までの不忍池は北に長く伸びていた。
明治になり競馬場造営のため埋め立てられ、現在は上野恩賜動物園西園となっている。古地図
当 時は藍染川は池の西岸を迂回して、東南方面に流れていたようだ。


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