急に仙台の営業所に出張を命じられる。と言っても日程は日帰り。遠見塚古墳
仙台の所長との雑談で、“実はすぐ近くにも大きな古墳があるんですよ”と知らされる。
“それは知らなかった”ということで食事の合間に案内してもらうことになったのが“遠見塚”という古墳。
所長は古代史や遺跡にはあまり興味はないようだが、以前、前任者のときに雷神山に行った話をしたことがあるので古墳オタクのために気を利かせてくれたようだ。
確かに名前は聞いたことがあるが、さして気には留めていなかったその遠見塚古墳は仕事先から車で5分くらいのところにあった。バイパスに面して前方部が道路で削られていたが、綺麗に復元されており、見せてもらった写真のイメージよりはかなり大きく感じた。
“これは比較的初遠見塚全景期の形だね”と受売りの説明をする。所長が案内で墳丘に登ろうとするので、拝礼したところ、所長もあわてて手を合わせた。“一応貴人のお墓ですからね”。“‥‥でも子供がよく滑り台やマウンテンバイクで遊んでますよ”。“‥‥‥‥”

遠見塚古墳。全長110m、後円部は高さ6.5mとある。前方部は平らで低い。4世紀末から5世紀初頭の築造とのことで、雷神山とほぼ同時期のようだ。宮城県下では第2位の大きさで多数の出土品のほかに、かなり広域な周壕が復元されて公園となっている。平日の小雨の中なので訪れている人も少ない。以前は周囲遠見塚前方部が畑で、戦後に軍用空港の建設でかなりの盛土が掘削されてしまったが、昭和43年に発掘調査とともに国の史跡に指定され墳丘が復元されて公園整備が進められたとある。
復元当初は白石が引き詰められていた写真の周壕部は枯れ草となっていた。春には野原のようになるのだろう。

雷神山にしろ、この遠見塚にしろ4世紀から5世紀の首長墓であろうが、名取柵が設けられ東国の移民が進められるのが7世紀初頭としても、それ以前は蝦夷の人々の土地だったろう。前方後円墳がヤマトとの同盟の証のように言われているが、これは蝦夷の首長の墳墓なのか、それともその頃頻りに遠征をしていた毛野を中心とする坂遠見塚後円部東の首長達が征討の証として築いたものなのか。
この後38年戦争で戦乱の中心が多賀城以北から盛岡に移っていくのは300年も後のことになる。ここに眠る被葬者はどのような人物なのか。今回の出張の思わぬ副産物に興味が湧いて来る。

“古墳の上に登るとなんとなく古代の人と空間を共有しているような気になりますねぇ”と所長がつぶやく。まぁ、確かにそんな気になることが古墳に行って墳丘に登る楽しみではある。
仕事で来ているので長居は出来ないが、束の間のよいひとときをくれた同僚に感謝!
近世には興味があるようなので東京に来た際遠見塚古墳案内碑はぜひ徳川所縁の場所でも案内したい。

読み込み中

クリックでキャンセルします

画像が存在しません

 

 

読み込み中

クリックでキャンセルします

画像が存在しません

 

にほんブログ村 歴史ブログへ
にほんブログ村