KARANOがれーじ

KARANO 枯野 1.古事記に登場する仁徳天皇所有のハイスピードクルーザー。毎日灘波と淡路を往復し清水を宮に運んだ。 2.今はなき我が愛車のニックネーム。歴史遺産。 3.枯野さん(ハンドルネーム)。 100m級の関東大型古墳完全制覇をサイクリングの目標としてきたが。目標達成後はE−バイクに転身。オフィス4階まで息切れして上る超弩貧脚がE−バイクで峠を目指す。


久々の『2+4』 
2+4奥久慈 1宅からにしろ、輪行・2+4にしろ近郊で思いつくところはいき尽くしてしまった観がある。あとは山岳サイクリングや峠越えしかないのだが、斜度が3度を超えるとNGになってしまうおやじにとって、もはや山岳や峠越えしか残されていない関東近郊は選択の余地は少ない。
今回は突然思いついた竜神峡・袋田滝めぐりを決行する。この地域は竜神橋開通当時にいったきりなので25年ぶりだ。





『22+4奥久慈 2+4』でキーになるのは『ベース』。長時間車を離れるので、なるべく人目があるところ。長時間停めておいても文句言われず、できれば無料がいい。自動開閉ゲートや開閉時間が厳密なパークはNGだ。地方の公園やスポーツ施設の駐車場は無料でゲートがないところも多い。だだっ広いところが多く自転車の積み下ろしにも周囲に迷惑がかからないからこのような場所を選ぶ。
今回のベースは常陸大宮市の山方宿の清流公園。昼間はキャンプやBBQ・つりなどで賑わう。
ここから岩井橋を渡り県道29号・36号を経由して県道33号で『竜神大吊橋』に立ち寄り、同県道で大子町に入り『袋田滝』を散策した後R118で山方宿に戻る。山地地帯ではあるが、行程は60km。4月の養老サイクリングと比べても走行距離で15km、標高差で90mあるものの、獲得標高・平均斜度はほとんど変わらない。あとは気温と風向き次第である。

2+4奥久慈 42+4奥久慈 3流公園駐車場をAM7:30出発。岩井橋を渡ると起伏のある丘陵道路になる。
ここは丘陵地帯特有のなだらかな起伏の上下が続く。






2+4奥久慈 5道36号に入ると小さな峠を越える。距離2.2km、平均斜度5.8度。最初の難関である。脚力の全くないオヤジは強く踏み込むと一発OUTになってしまうため、ローギアでゆっくり上がる。
何とか脚タッチなしで上り切ると麓までつづら折りの下りみち。天国〜ぅって言いたいが長い急坂はことのほか怖い。






2+4奥久慈 62+4奥久慈 7道33号の竜神大吊橋入口までは気持ち上り程度の行程だ。竜神大吊橋入口から頂上のm第一駐車場までは1.4km平均8.1度ある。歩いて登りたいくらいだが、5〜600m手前の本宮神社の参道から上っていくと平均斜度は7.1度だ。ここもなんとかノータッチで上り切ると優雅で巨大な竜神大吊橋が目前に見える。
ここはバンジーでも有名だが、今日も入れ替わり多くの人がジャンプに来ている。





2+4奥久慈 82+4奥久慈 10長(支間長)375mは歩道吊橋としては全国でも有数の長さである。竜神峡の絶景や奥久慈のパノラマ展望が素晴らしい。ふるさと創生の一環で建造されたのだが、開通当時から不思議なのは「この橋は橋としての利用価値ってなに」ということ。両岸に集落はなく生活橋としては存在価値0である。登山道も湖畔に近いところを通っているので対岸に行くならダムを渡ればいい。
要は片道の観光橋なのである。




2+4奥久慈 112+4奥久慈 9ヤジは心臓が弱いのでバンジーはできないが、スリルだけなら小中大滝(小中というところにある大滝)にかかる『けさかけ橋』で十分である。
せっかく来たのだから竜神ダムにも行って見よう。
ダムへは一旦県道まで戻り竜神川を渡り対岸からまた登っていく。竜神大吊橋から見るとテーマパークの小さいお城みたいに見えるが、近くで見るとなかなかどうして立派なダムである。堤長90m、堤高45m、有効貯水量は2,700千㎥ある。
ダムの中央に巨大なスクリューみたいなものが見えるが観光放水でもするのかな?


お茶2+4奥久慈 12タイムしたいと思ったのでダムの手前にある『竜神カフェ』による。開店がAM11:00でまだ15分早かったが、飲み物だけということでわがまま言って入れてもらった。








2+4奥久慈 142+4奥久慈 13神峡を後にしてR461に合流、大子町を目指す。常陸太田市と大子町の境界が本日の最高点318m。ここも行けると思ったが、頂上まで200mほどのところで久々のこむら返りのためストップ。無理せず木陰で小休止。
再スタートして大子町に入る。ここからは長い下りである。





2+4奥久慈 162+4奥久慈 15木に『華厳滝』があるなら、うちには『袋田滝』があると茨城県人に言い放たせる名瀑『袋田滝(ふくろだのたき‥‥フクロダタキと読んではいけない)』である。
前途の『華厳滝』、和歌山の『那智滝』とともに日本三大瀑布の一つに数えられる。
観瀑台までは長いトンネルを抜けていく。途中にある『恋人の聖地』何て言うモニュメント。いつできたんだ。オヤジがぼおっと一人で突っ立っていたら『恋人』でなく『変人』である。




2+4奥久慈 182+4奥久慈 17ンネルはそのまま岩肌をくりぬいた観瀑台に通じている。水量が多い時期ではないようだが、下から見上げる大瀑布は迫力満点である。







2+4奥久慈 212+4奥久慈 19瀑台への通路の奥に『第二観瀑台』のエレベーターに通じるトンネルがある。前回(25年前だが)来た時はなかった。エレベーターは2基。直通階段はないようだ。
第二観瀑台からは下からは見えない四段の滝の全容が見える。スタッフさんにいつできたのか尋ねたところ、11年前の2008年とのことだった。





2+4奥久慈 20晴らしい名瀑にケチをつけるわけではないが、『日本三大』の基準ってなんなんだろう。高さ?幅?水量?認知度?どれもお国自慢の三大瀑布に優劣をつける必要はないが、『称名滝』が『三大‥‥』に入らないことには違和感がある。あくまでも個人の感想ですが‥‥







2+4奥久慈 232+4奥久慈 22めの昼食をとって、帰路となるR118を山方宿に向かい南下する。久慈川の谷合に沿って走る水郡線。どことなく故郷の奥会津にも似た風景で懐かしさを感じる。






152+4奥久慈 24時を少し回って清流公園に帰還。朝は誰もいなかったのにこの時間は結構賑わっている。

本日の走行 66km 
普通のロードバイカーなら何でもないルートのようだが、足腰の弱いおやじバイカーには結構辛かった。
いよいよE−バイクかな‥‥




竜神橋・袋田滝



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昨年からハマっている女性シンガーがいる。

laura_branigan19laura-branigan2ーラブラニガン。80年代前半に人気を博したディスコ系、シンセPOP系の歌手である。その当時の人気歌手が今でも現役やリバイバルで現在の歌声を聴ける中、残念ながら彼女は2004年に47歳の若さで亡くなっている。

はまるきっかけは1年前のカッティングクルーやユニオンギャップをはじめとする60年代から80年代までのシングルレコード群の蔵出しである。レコードとともに88年〜96年にかけてのPOPシングルCD群(発掘の結果、我が家で最も古いシングルCDはカーリーミノーグの『愛が止まらない』だった??。)、そしてカセット音源をMD編集した懐かしいヒット曲群。80年代ではビッグカントリー・アルファビル・ローラブラニガンなどが次々と蔵出しされた。

 

MD編集してからも20ローラブラニガン年近く封印されていた『セルフコントロール』。録音当時はディスコソングとしてもヒットしていたので、結構聴く機会があった。懐かしくてYoutubeで聴いてるうちにみるみる嵌ってベスト盤を購入。それでもおさまらずアルバムをそろえる気になった。ベストを除くとオリジナルアルバムは7枚。すでに海外版しかないものもあり、「そのうち‥‥」では揃えるのが困難になる気もして一気に購入。

『Branigan』1982年 グロリア・オールナイト ウイズ ミーほか9曲

『Branigan2』1983年同 悲しみのソリティア・How Am Supposed to Live Without Youほか10曲

『Self Control』1984年同 セルフ コントロール・ラッキー ワンほか10曲

『HBranigan 005old Me』1985年 スパニッシュ エディ・フォーエバー ヤングほか10曲

『Touch』1987年 パワー オブ ラヴ・シャッタードグラスほか12曲

『Laura Branigan』1990年 月あかりに濡れて・ノープロミス ノーギャランティほか10曲

『Over My Heart』1993年 オーバー マイハート・オーバー ユーほか12曲


84IMG_4408年までは立続けにヒットアルバムを連発したが、これ以降シングルではまだヒットを放っているものの、アルバムチャートは下降の一途をたどったようだ。しかしベスト盤で後半の曲を聴いたとき、この人なら損はしないと確信した。否、惚れた女には損得なく貢ものである。袖の振れる範囲で‥‥だが。

ビートルズ・ウォーカーブラザーズ・キングクリムゾン・レベッカに次いで5人目のフルコレクトアーティストとなる予定だったが、亡くなった後に生前レコーディングしていた曲を再編集して遺作として限定リリースされた『リメンバーミー』だけは、プレミアがつき袖が振れない状況になっているのが残念。


オーバーマイハート思議だがオヤジが気にいったアルバムは、ほぼアルバムチャート順位と逆転している。一気に聴くと歌い方や曲の変化がはっきりわかる。もちろんヒット曲満載のアルバム『セルフコントロール』や『ブラニガン2』もよいのだが、最も気にいったのは『オーバーマイハート』と『タッチ』。

実質的に最後のスタジオ録音である『オーバーマイハート』はアルバムチャートにこそ出てこないが、完成度は高く、一番安心して聴ける1枚。タイトル曲であるオーバーマイハートはエリックマーティンの曲。よく聞く名前。確かに日本人好みって感じの必聴の癒し系バラード。


タッチッチのオープニングであるオーバーラヴとシャドゥオブラヴは聴いていると身震いしてきてしまう。ローラ演歌炸裂だけど、それまでのアルバムと比べても歌い方に深みと余裕が出てきているって感じ。





ローラブラニガンいで『ローラブラニガン』かな。『月あかりに濡れて』なんてディスコティックのりのりで結構いいんだけどね‥‥。静と動が対照的なアルバム構成だが、際立ったバラード2曲『Never in a Million Years』と『No Promise, No Guarantee』はピーターウルフのプロデュース。ライツアウト懐かしい




オリジナルヒットはもちろんあるが、結構他のアーティストのカバーでヒット曲を出している。たった1曲からここまではまった裏には、ほかの結構好きだった曲のカバーを知ったということもある。歌唱力というか独特の歌いっぱしで、オリジナルっぽく仕上げてしまうのも魅力である。

『Forever Young』:やはりアルファビルが最高だが、こちらはシンセだけでなくエレキアレンジも取り入れてよりPOPに仕上げられている。

『Power Of Love』:セリーヌデュオンのバージョンは知っていたが、ローラバージョンも圧巻の歌唱力だ。半端ない。やはりただのアイドル歌手じゃない。

『時の旅人』『思い出にできなくて』:ローラは『竹内まりや』や『岡本真夜』のカバーも歌っている。オリジナルがいい曲だということもあるが、オリジナルの美しいメロディーラインを崩すことなくローラ演歌にうたいあげられている。

変わったところでは『TOKIO』:日本でのオリジナル版らしい。東京ガスCMソングとのことだがオヤジは聴いた記憶がない。ヒットチャートにすら出ていないが、コイツは泣けるくらいいい曲である。

当時Branigan 003の『Self Control』のウォオオ〜にはまった時にもう少し突っ込んでいたら、シンディーやマドンナ、レベッカなどと青春の思い出に残る一コマを飾るBGMを奏でていたかもしれない。しかし逆に、自分の中で当時たった1曲だけで済ましてしまっていた手つかずシンガーが、これほど深い奥行きを持っていたことに今感動を新鮮に味わうことができているのはよかったことなのかもしれない。

 映像などはむしろ現在のほうが多様に見ることができるから当時より情報は豊富である。

 

Branigan 002来シンディーローバーやNOKKOのようなロリ声が好みのオヤジであるが、このローラ演歌というべきハスキー掛かったビブラートの利いた太い声に魅せられてしまった。シャウト調のヒット曲が多いが、自身はバラードが好きといっていたようで、聴かせる曲の持ち味は流石である。

 

 

 

 

Branigan 001人ではあるが、みる画像によって別人のように変化があり本等の顔つきがわからなくなったりする。172cmは外人女性でも背が高い方だろうが、実際以上に大柄に見えるスタイルは、スレンダーとかプチグラマーといったアイドル系ではなく、アスリートみたいである。そしてその容姿は時として女神像のように端正かと思うと、時に女子プロレスラーみたいなアクションを見せたりもする。静と動、知的さと妖艶さを持ち合わせているのがまた魅力的である。




存命ローラブラニガン2ならば62歳、現役ではないにしても現在でもステージに出る姿を見ることはあったろう。歌手でなくても舞台女優として頑張っていたかもしれない。47歳という若さで亡くなられたことは悔やまれるが、若い映像や歌声のみが残ることは、正に彼女の歌う『Forever Young』そのものだろう。

80年代POPって今聴くととても新鮮である。そんな時代の中でも異彩を放ったアーティストの一人がローラブラニガンである。

 


 


ゲイリーパケット&ユニオンギャップ
南北ユニオンギャップ戦争の軍服をユニフォームにソフトポップを次々にヒットさせた60年代のアメリカのグループ。
日本で日清・日露当時の士官服でニューミュージックを唄うと思ったらなんか変だが。向こうの人だとそんな違和感はない。
1967年から68年にかけて『Woman, Woman』、『Young Girl 』、『Lady Willpower』、『Over You』とたてつづけにゴールドディスクを放った5人組。
オヤジが33 1/3r.P.m.・7インチ盤を購入したのは、72〜3年くらいだったと思う。その当時はまだ様々な場所で彼らのメロディが流れていた。

家の奥で埃をかぶっていたレコードを何故急に思い出したかというと、毎朝立ち寄るセブンイレブンで、このミニアルバムの中の1曲、『Over you』を連日耳にしているからである。以前ヨーカドーで連日『イエローリバー』が流れていたようなものだ。今はレジが混むと『HELP!』だが‥‥

『ユユニオンギャップニオンギャップ』はゲイリーパケットが幼少を過ごした街の名のようだ。ワシントン州の地方中核都市『Yakima』に隣接する小さな町だ。googlで見ると、ショッピングモールやコストコ・トヨタディーラーなんかがある。特急や急行が停まる町から1駅2駅の本数の少ない各停が停まる町というイメージ。地方都市の郊外にイオンモールがあるって感じか(70年も前ではだいぶ違っていたろうけど)。

オヤジが一番好きだったのも、セブンで流れている『Over You』だった。この曲は全3作と比べても少し雰囲気が違う。同じようなメロディラインであるが、曲も歌詞もより抒情的である。4曲しかない中でこの曲だけが少し離れている感じである。これはこの曲の個性なのか、音楽活動の経年のためかはわからない。

この曲を最後にのUGのゴールドディスクは姿を消す。その後トップ10やベスト20入りした曲もあるが、大ヒット曲はなくなり70年にはゲイリーパケットがソロ活動に移って消滅したらしい
ゲイリーパケットは今でも音楽活動を続けているようだ

ベスト オブ ユニオンギャップの4曲だけで満足なのだが、今回ベストアルバムを購入してみた。ゴールドディスク4曲以外も同じようなメロディーラインの曲があるのか気になった。
ニールダイヤモンドやビージーズのカバーもあったが、結局は家のレコード1枚のままでよかったかなぁという感じである。


いつ聴いてもどこか哀愁を感じる『Over You』。
最近はセブンに行ってもかれなくなったのは残念。
何か時が止まった気分になるひとときを与えてくれる我が家の名曲アルバムの中の1曲である。



圏央道稲敷へ013年9月以来2度目の『霞ヶ浦(西浦)』6Wheelサイクリング。
今回は内陸の江戸崎がベースになる。
圏央道が相互通行ながら開通しておりアクセスがとても便利になった。東関東道周りのルートだと思っていたが、ナビ検索すると常磐道経由と出た。稲敷ICを下りると江戸崎市街まではわずかな距離である。





小野川船溜まりつて中世近くまで存在していたという坂東の巨大湖沼『香取海』の内湾の一つであった『香澄流海(かすみながれのうみ)』の名残である霞ヶ浦に流れ込む河川である『小野川』沿いの『江戸崎リバーサイド公園(通称かぼちゃ公園‥‥なんでだ??)』についたのはAM7:00。
公園の前に広がる小野川は船溜まりのように広くなっているが、かつてはこのあたりまで霞ヶ浦の広大な内湾が広がっていた。
江戸崎は霞ケ浦の水運の要衝として栄えた街だ。



かぼ新利根川ちゃ公園を出発し、R125と合流し東進する。R125に並行し新利根川が流れている。利根川本流の水量を分散するため開削された放水路だが、現在は灌漑用水路となっている。







新利51号の陸橋根川に沿って霞ヶ浦右岸に向かう。カントリーライン(素直に訳せば田舎道である)の稲敷大橋を渡り『本新島干拓地』の護岸道路を行く。以前来た時は未舗装部分が結構あったが流石に完全舗装になっていた。
常陸利根川を渡ると潮来市に入る。潮来市から行方市を抜けて『北浦大橋』に向かうルートはこの地を訪れる際の定番ルートである。





眼下の北浦へ昌潮来線は、はっきり言って何もない田畑と雑木林の退屈な一本道だが、荒井行方線に入り、丘のトンネルを越えると目の前に雄大な北浦が開け、景観工学のお手本のような北浦大橋が現れる。







北浦大橋2北浦大橋3内の様々な絶景、景勝地もいろいろ訪れているが、初めてこの道を通った時の、事前の情報も期待感も全くなかったところに突然現れたこの風景は茨城県の中で最も感動し気にいった風景となった。






鹿島灘潮騒はまなす公園大橋を渡り、北浦左岸を護岸沿いに走る予定だったが、天候もよくなり汐風が漂ってくると急に海が見たくなった。
予定変更。最短で海に出るルートを探し、北浦湖岸通りから一本松通りという道を抜けて、『潮騒はまなす公園』を経て角折海岸に出る。
やはり初夏の海はいい。




角折海岸の付近には一定区間ごとにマッシュルームのような人工岬がある。侵食防止のための施設である。何故か脳のCTスキャンを連想してしまうのだが、名称は『ヘッドランドというのではさもあらん。
防潮堤の真正面にはやや発育不良のマッシュルームがあり、何やら像が見える。検索してみると『はまなすの精』の像のようだ。





周囲はまなすの精像には釣りやサーフィンをしている人がまばらにいるが、この付近は遊泳禁止となっており、現在写真を撮っているところも本来は立ち入り禁止になっている。
全く観光施設もないこの場所に、この像何のために立っているのだろう。






海岸北浦大橋で中食と小休止、再び北浦湖畔に出る。
距離と時間を費やしたため、北浦左岸を南下し鹿島経由で戻るルートを断念。もと来た道を引き返すことにする。風向きが変わり、そのほうが追い風に乗りやすいこともある。体力が全くない身では、せめて風位は味方につけないとまともに走ることすらできない。
再び北利根橋を渡りカントリーラインを浮嶋方面に進む。




景行天皇行在所景行天皇行在所案内板年前に偶然見つけた『景行天皇行在所跡』に再度赴く。『浮島』は、昭和になって干拓により地続きとなったが、景行天皇の御世とされる古墳時代前期には、浮島も一つの大きな島でなく、現在のいりくんだ台地が島となって複雑な地形だったのかもしれない。
第12代景行天皇は、日本武尊の父にあたる。実在を疑問視されていること以上に、交通手段もない当時に、蛮地といえるようなヒタカミまで大王が行幸したのかというほうがよほど疑問である。



往き神宮寺城址2神宮寺城址は何気なく通過したしまったが、帰路で神宮寺城跡の案内板があったので、ちょっと立ち寄る。
解説によると神宮寺城は南北朝時代の城である。案内板には戦国時代のことがかかれていないが、遺構が形をとどめているということは戦国から近世にかけても何らかの形で使われていたのかもしれない。古城探索も古墳散策と同様今は適した時期ではない。古城マニアならば寒冷期に散策に来たいものである。


江戸崎市街回江戸崎をベースにしたのは2つの理由からである。
一つは江戸崎不動院を参拝すること。もう一つは古墳らしき地形を確認することである。
大正橋を渡り右に行けばかぼちゃ公園だが、橋を直進し旧市街のメインストリートを北に向かう。
昔ながらの商業地であるが、ほとんどの店が閉店か廃屋になっている。市街の外れには大きなショッピングモールもあるので住民が消失しているわけではない。街には鉄道駅もないために中心を維持するものがない。空洞化の際たるものである。
かつてはにぎわっていたであろう旧市街を抜けて不動院に向かう。


江戸不動院仁王門2不動尊院仁王門崎のメインストリートの横に、古式蒼然とした山門がある。江戸崎不動院の仁王門には巨大な仁王像が安置されている。
この山門からはかつて盛隆を極めた大伽藍を彷彿させる。






江戸不動院仁王門3不動院仁王門4崎不動院の名が知られているのは、後に『黒衣の宰相』と呼ばれる『天海大僧正』が天正18年より17年間におよび住職を務めたことによる。住職当時は隋風と名乗っていた天海僧正は会津の出身で芦名氏ゆかりの人物とされている。天海僧正を招いたのも当時この一帯を支配していた芦名氏である。
同時に天海僧正は明智日向守光秀の後身ともいわれている。光秀は土岐氏の一族である。実は芦名氏の前にこの地を治めていたのは土岐氏の一族であった。そういう意味でも一度は訪れたい場所であった。

山門不動院から小野川を望む長寿坂石段をくぐり結構きつい長寿坂の石段を登ると眼下には江戸崎の街、ベースとしたかぼちゃ公園とその先の小野川が一望できる。長寿坂の名は奇しくも、生き延びた光秀が得度したとされる飯室谷長寿院と同じ名である。
長寿院は昔オヤジも訪れたことがあり、隣接する松禅院には有名な『光秀寄進の灯篭』がある。



不動江戸不動院院の本堂は山門とはうって変わって新しいこじんまりとした造りだ。ご本尊は不動明王。千手観音が守り本尊のオヤジではあるが、お不動さまは我が家のお守りでもある。まずはお不動さまに手を合わせる。
「のうまく さんまんだばさらだん かん」
カミさんの守り本尊がお不動さまなので、御朱印をお願いした。
天海和尚が住職だった当時、また寺が最盛期だったころの伽藍や街並みに思いを馳せて不動院を後にする。
いつか『北関東三十六不動僔霊場』巡りもしたいものである。



もう前方後円墳??一つの目的は江戸崎周辺の古地図を見ていて偶然見つけた地形。これどう見ても前方後円墳でしょ。しかも墳丘を囲むように道路が周囲を囲んでいるようにすら見える。
現在の地図では『江戸崎城趾』とある。古墳とは描かれていない。遺跡として調べても出てこない。古地図では大きさがわかりずらいが、現在の地図で見るとかなり大きい。台地の一部を古墳にしたとしても、霞ヶ浦周域で最大かつ関東有数の大型古墳船塚山を遥かに凌駕する規模である。




江戸崎城趾2江戸崎城趾1の古墳状の地形がどんなものか見てみたい。
前方部のような地形に向かう道を上ると江戸崎城跡の案内板があった。ここは二の丸と本丸を隔てる空堀だったようだ。本丸に上る石段がある。






江戸崎城趾3方部状地形の頂上は広大な広場となっている。地形がならされていたとしても大きすぎる。これが古墳なら、オヤジが実際歩いた墳丘の中で最大の『造山古墳』並の超弩級墳墓である。しかも古地図で見る後円部状地形は開削されて学校の校庭になっている。やはり前方後円墳らしき地形は偶然の代物であった。
江戸崎城は土岐源氏の流れをくむ土岐原氏により築城された堅牢であるが、小田原の役で北条についたため落城し、芦名氏の支配する処となった。芦名氏が秋田に移封となり廃城になった。
芦名氏が隋風和尚を招いたとき、土岐氏ゆかりの人物がいたかは不明であり、ここでは「天海=光秀」につながるものは見当たらない。
幻の巨大古墳を後にして帰路につく。

本日の走行:自転車  87km
北浦左岸・水郷経由は断念したが、結局走行距離は当初予定より伸びた
本日の走行:車    164.6km エアコン故障で帰路は暑かった。帰路は東関東道・京葉道路経由にしたが、結局8km以上遠回りであった。
                                    予定                           実走
実走ルート予定ルート



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2019年5月、歴史遺産である我が愛車の音楽媒体の主流は今だMDである。
携帯用MDプレーヤーが壊れて以来、自転車の音楽のお供はMP3プレーヤーに変わった。
ボイトランセド+片耳イヤホンスレコーダーとして購入した三洋PS502が大きくて不便なため、2014年に現在の『トランセドMP350』を購入。当時4000円したかしないかくらいだったが、なぜか今は1万数千円の高値になっている。当時4000円でも高いと思ったが‥‥
だが、前から気になっていたのが片耳ステレオイヤホン。ステレオでコード1m以内。耳かけ式ではよいものがなく、コード巻取ホルダーを使うのだが、衣料の脱着が多い自転車では脱着時に困る。
現在3代目イヤホンも酷使のためか接触不良になってきた。



イヤBluetooth送信機+ワイヤレスイヤホンホン自体は安いが、この際だからBluetoothを使ってワイヤレス化をする。我が家の音楽系機器は世間と比べてイギリスと日本の産業革命ほどの開きがある。
スマホなどからBluetooth受信機を使って一般オーディオや非対応スピーカーにつなげるのは知っていたがその逆ってあるのかなと調べてみたら、何てことなく多くのレシーバーが送受信兼用だった。購入したのは2700円で6時間使えるもの、ちょっと高めで使用時間に難があるが、クレームらしいレビューもないので決定。丁寧な日本語取説があり“(⌒-⌒)”。



イヤ両方はいったホンはとりあえず安いものから、星の多い順で選択。2100円也。バッテリー劣化を考慮しても10時間/1充填使えれば十分だろう。
でも届いた奴は同デザインで2300円のものだった。発注間違えたかな。この手の中華製のものはOEMのオンパレードである。どう見ても同じ商品なのに、価格や評価が全然違うのは何故??。
こちらの商品はまれに低評価があるが許容の範囲内だろう。何より期待していなかったケースが付いてきた。おまけに厚みのあるケースでBluetooth送信機や接続コードまで入ってしまう。このケースを200円で買ったと思えば上出来だ。

とりあえずちょいと使った範囲では室内5mまでは音飛びもなく、まあ合格というところ。アキバヨドバシの中を歩いたら、場所によっては混線で聴けたもんじゃなかった。
BluetoothであるからiPhoneからダイレクトにコネクトしてハンズフリーや音楽再生もできるが、出先でバッテリーが不安なサイクリングでは、スマホnaviとカメラ使用がメインのため音源は別にする。大型のモバイルバッテリーがあれば日帰りは十分もつけど‥‥

イヤホンはカナル型だが、メガネとの併用の際ピースがずれて音漏れしてしまうのが難ではあが、コードから解放されたということは自転車乗りにはメリットが大きい。
上記の理由からか、有線イヤホンよりボリュームが小さきなってしまうため、本体のバッテリー持ちが悪くなってしまうようだ。
何より最大の難点は親父が絶対悪としている『充電』という行為が増えてしまうこではあるが、電池でも充電式を使っているオヤジであるから同じではないか‥‥


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息子の頭の上のリンゴを見事に射抜いたのはウィリアム・テルである。
今のパソコン、インテルはコアi7。年代もんだからね。
腕の血管や太ももの血管から心臓まで管を通して心臓の冠動脈を造影する検査、つまり心臓血管造影検査のことをカテーテル検査という。
遂に6回ほぼ同じ書き出しである。

3年イメージ図イメージ毎にやりましょうといわれて2016年6月に受けてからはや3年が経過した。事前問診で『心臓CT』はどうなのって先生に尋ねたら、「どちらでもいいよ、でもCTで異常が出たら結局心カテに回されるけどね」。だったら最初から心カテやります、になる。
2010年の6.11から6回目のカテーテル。オペ室は見慣れた風景だ。元気な状態で受けた最初の心カテ検査のときはSFを見ているような感じで、サイボーグにでもなるかななんて新鮮味があったけど、最近はドラマなんかでオペ室を見てると、見慣れたこの部屋はいささか年季を感じる。まぁ機材は変わっているんだろうけど。
イグザミニーがオペ室にカメラ持込なんてできないのでフリー画像の借用であるが、まあ大体こんなイメージじである。

検査いてえ時間はずいぶん短くなった気がする。CTもMRIも心カテも検査中は気持ちがいい。どれもぐっすり眠れないのが難点ではある。造影剤が一気に入るときは流石に全身がぞわ〜!!っとくる。だがそれも「胃部レントゲン」のように散々回された挙句「バリュームを一気に飲みなさい」といわれる苦痛に比べればはるかましである。
心カテのCTやMRIとの最大の違いは、心カテはオペの前後に苦痛を味わうという点である。動脈に穴をあけて管を通すのである。終わった後は血だらけである。
終わると止血ベルトで締め付けられる。麻酔が切れてくると泣きべそかきたくなるほど痛い。
この状態で3時間待合室で待つ。左手は絶対安静だから本も満足に読めない。






14止血2回目:30の一回目血止確認。でもやる前からわかっている。まだ全然塞がっていない。
案の定ベルトを外したとたん血が噴き出して来た。先生が止血処理をしてくれているが、この勢いではだめだろう。
前もって看護師さんにも前回は4時間かかってさらに止血処理をしてもらったといっておいたので、今回もさらに1時間の延長にしてもらった。今度は空いているベンチシートに横になって、手を上にして休んだ。二回目で流血暴動はぴたりと鎮圧された。








やっ止まったと、ガーゼとばんそうこうに換えてもらい、無事帰宅。
しかし最後のカテを抜く作業はいつ見てもレーシングチーム並みだ。うちの自転車のシフトケーブルの抜き取りでは絶対あんなスムーズに抜けやしない。
結果は翌週の通院時になるが、留意点があるようだ。ちょっと不安ではあるが、わかれば転ばぬ先の杖である。

免許の返納の前に『命の返納』をしたくはないから。



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5月4日、今上天皇陛下初の一般参賀へ行ってきた。
登城2回は前評判でも今年初の一般参賀の時より更なる人出が予想されていたので、いつもより1時間以上早く出発、6時40分には二重橋前に到着。
千代田線自体が混んでいるので覚悟はしていたが、馬場先門口からいつもの南側ルートがすでにいっぱいで、中央を進むが二重橋交差点の遥か手前で詰ってしまった。





久々に旗もらった日は久々に旗をもらった。いつも旗を配っている方々は『国旗協会』という団体で奉仕活動の一環とのことだった。
1時間ほどして列が動き出す。内堀通りを渡りボディチェックを通過。今まで飲み物は持参していなかったが、流石に今回はペットボトルを持参。中身のチェックってどうするのかと思ったら、その場で自分が一口飲む。これシンプルで素晴らしい。





並ん合流待ちだのは中央11番の前方。3方向から合流するので、1列500人とすればすでに15,000人が前にいる計算だ。








8時動いたころから順番に列が動き出す。いつもの先頭旗役集団が皇居正門の石橋まで進む。








9時万の群衆?過ぎに再度列が動き出す。正門が開いた。開場を繰り上げたようだ。二重橋から見下ろすと広場を埋め尽くした群衆。ハンパない。(正月のコピペだ!)







長和殿入口トイレ前回は長く待つこと覚悟だったが、トイレの心配はしていない。だてに場数を踏ん出はいないのでメトロ二重橋前でトイレを済ました後は、そのまま長和殿広場まで行く。
なれない方はトイレが心配だろうが、長和殿入口の西の丸門の右手に大きなトイレがある。多くの参賀者は門をくぐると少しでも早く近いところに行こうとするから、このトイレはすいている。ここでトイレを済ませてからでも、見える位置はほとんど変わらない。




「天皇陛下ヽ(^o^)丿」このほうがはっきり見える!目のおでましは、天皇皇后両陛下とともに成人皇族の方々がお立ちになられているのだが、こんな感じ。
正月同様「天皇陛下ヽ(^o^)丿だけで終わってしまった。






いつもの場所付近とから来る方には申し訳ないが、定石通り退場の群衆の流れに乗ってさらに前進。新年参賀の辺りまでは来れた。2回目のお出ましは11時。冬しか来ていないので、この暑さで身動きできぬままの状態は腰痛もちには結構辛い。早朝の大手町駅から立ちっぱなしのままである。
周囲では係員に助けを求める声。体調を崩して職員・警備官に付き添われて退場する年配者が続出。こんな一般参賀も初めてである。




2回お出まし1目のお出ましのアナウンスが流れた瞬間、スマホの電源が切れた。最近全然バッテリーがが持たない。旗を振りながら予備充電器につないで再起動している間に、陛下のお言葉が終わってしまう。陛下がこちらを向かれて手を振ってくださった場面も逃してしまった。全くうちの『ばかSiri』もオヤジ同様不敬罪である。






2回お出まし4お出まし2目もフルキャストだが男子成年皇族は、天皇陛下・秋篠宮さま・常陸宮さまのみ。我が家もおやじのあと本家を継ぐ男がいない。男子ならいとこの長男が養子に出ない限り継承権2位?となる。
女系化は庶民とて同様の問題なのである。
雅子さまの陛下ご即位からの満面の笑みも印象的である。
まさかカミさんみたいに家じゃ『女帝なんてことないよね。2対1も我が家と同じだし(何と不敬罪な!)


帰り最終的には参賀者14万1千人。今年新年の15万5千人より少ない。今後ますます皇族の方々も大変になるのだろう。天皇陛下は上皇陛下のお考えを継承されると述べられた。それは大変喜ばしいことだが、陛下は陛下のカラーを出していただきたいとも思う。
令和はまだ始まったばかりである。恐れ多いが陛下とは同い年でもあるし、娘は愛子さまと同い年、親の結婚も上皇さまご成婚と同じ年と、親近感のある皇室である。
久々にありったけの声を上げた「天皇陛下ヽ(^o^)丿であった




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平成最後のサイクリングになるであろう本日の行先は、またまた房総。
どおせ大型連休で道路はどこもめちゃ混みだろう。
一度家から行ってみたかった笠森観音を目的地にする。前回の起点眤豸个龍瓩である。自宅から往復130km以上だ。
以前行徳橋架け替えなら、日帰りの遠乗り距離だが、前回は情けなくも50kmちょいでバテバテ状態であるから、いきなりは無理っぽい。とりあえず行けるところまで行くことにする。
本日の出撃はSAGA号。お尻には優しいが、重たい分登坂やGO&STOPの多い一般道では不利である。
AM5:15に出発。定石に従い今井橋から行徳橋を渡りR357に出る。行徳橋は架け替えが進んでいる。外環道ができて一般道も変わった。




R3谷津干潟すいてるじゃん57は歩道を走る。車は予想外にすいている。R357歩道は通行人も少なく、信号もないので結構いいペースだ。特に下り側歩道は谷津干潟の中を抜けていくサイクリングロード並だ。






CRのよう谷津干潟を抜けたあたりでトラブル発生。またスマホマウントの緩みと、勝手にリセットしてしまうメータがリセット状態のままになってしまった。安物だぁ!何km/hでとのくらい走ったのかがわからん。スマホホルダーは予備のラバーで再固定。メーターは諦め出発。30分の立ち往生となった






14号養老川を渡るに出て第一のポイント、スタバ美浜店を通過。限界だったらここでお茶して幕張海岸経由で戻るつもりだったが、棒になっていた脚が、逆に回るようになってきているので通過続行する。
八幡宿から第二のポイント山倉ダムも通過。養老川を渡る。
脚が棒状態だが、攣ったりしないし、今日は足タッチもないので目的地を目指す





牛久外房側に至る分岐点の街を通過。先週行った眤豸个榔Α左に折れると笠森観音。距離もほぼ同じだ。
左折して緩い上りを上っていくと、長柄町に入る。内房と外房の境である。が、すぐに長南町の境界を越える。『笠森観音』は長南町にある。





何か二天門山登りかんかで来てしまった。『笠森観音』、65km位は走っているはずである。
麓の参道入口に自転車を止めて石段を登る。棒になっている脚には殊の外辛い。途中『三本杉』や『子授楠』などを見て山門『二天門』に至る。





急である観音堂天門を入ると山の岩肌に築かれた見事な観音堂が現れる。
観音堂は『四方懸造』という日本唯一のもので、1028年の建立とあるが、昭和に解体復元修理を受けて現在に至っているようだ。






観音堂からの展望内・ご本尊は撮影禁止になっているが観音堂からの眺めは素晴らしい。








鐘楼堂六角堂天門の横手から子育て地蔵尊のある『六角堂』への石段がある。
親より態度も図体も大きくなったが、今でも保護者の責任の範中なので、祈願をする。
六角堂からさらに石段を登ると『鐘楼堂』がある。ここの鐘は自由に撞ける。お賽銭をいれて心を静めて撞く。
静かな山間に美しい鐘の音が響き渡る。




時間遥か遠方を国道が通るちょっとした山道はまだAM11:00過ぎだ。眤豸个泙蚤を延ばそうかと一瞬脳裏をよぎったがやめとこう。ここまで来れると思ってさえいなかったのだ。過ぎたる野心は身を亡ぼす。笠森観音を後にして帰途につく。
帰りは車の多い国道を避け裏道を通る。牛久から国道をそれ山間の集落の中を進む。木々に覆われた道はちょっとした山道気分だ。




しばモトクロスコース2モトクロスコースらく行くとどこかからエンジン音が響いてくる。どっかで伐採でもしているのだろうと思ったら、目前にミニ元クロスコースが開けてきた。
本格的モトクロッサーに乗ったことはない(XR80をまたいだくらい)が、若いころはハスラー(車じゃない)125やXL125で河川敷のミニコースでよく遊んだ。




山倉湖菜の花の道を行くニコースから養老川沿いに出る。先週同様菜の花が咲く道を走る。国道と並行する道を通り山倉ダムに出る。
ダムサイドは歩行者自転車専用遊歩道になっている。対岸は『こどもの国キッズダム』である。ダムにあるからキッズダムというわけではないだろう。





湖畔メガソーラー湖面に何を走っていくと何かいようなものがある。
光の関係で湖面と同じ色だが何かびっしりと湖面を覆っている。
これはソーラーパネルである。
湖面ぎっしりに引き詰められている。防水処理はしっかりしているだろうが、水質や生態系には影響ないのだろうか?





山倉ダムよりR16・R14・R357ともと来た道を戻る。帰路はただ力を入れずに足を回しているだけだが、足タッチも攣りもなく16:50PMに帰着。ダメもとのミッションだったが、奇跡の生還??であった。


本日の走行 134km(メータートラブルのためルートラボ数値)
走行距離としては腰を痛める前の走行に近づいた。立っているだけでしびれてきてしまうが漕ぎ続けていても痺れは出ない。自転車は腰のリハビリに効果あるのか??

本日笠森観音のお供 SAGA号。重い車体・ブロックタイヤはMR−4よりハンデと思ったが、何とか完走できた。

本日の音楽のお供もローラさん。半年かけて遺作『リメンバーミー
と『プラチナムコレクション以外の全アルバムがそろったので、聴きごたえがある。

平成最後のサイクリングは目的地まで達することができた。だが果たして人生は。
子育てが終わり、退職になったら‥‥人生の最終目標って何だ。行けるところまで行くしかない。


都内では桜も終わり、心が高揚する新緑の季節となった。
平成初めての圏央道?の終了もいよいよ秒読みとなった4月後半。養老渓谷にサイクリングに行く。起点は前回と同じ『高滝ダム』、前回は2013年4月なので、丁度まる6年前に当たる。
前回は結構きついクライムと寒い雨にたたられ、あまりいいライドではなかったので、今回は腰痛も考慮しルートを縮小し、ヒルクライムも抑えたルートにしたのだが‥‥。





前回展望広場駐車場眤豸佚庫沼は開通直前で通れなかった『圏央道鶴舞IC』に向かう。眤豸个里修个烹丕舛できている。PAのすぐ裏に眤豸佚庫沼罎ある。眤豸个一望できる丘だが、往復だけで脚が痛くなった。大丈夫かな。
前回は市原ICからR297で90分かかったが、今回もPA休憩を除いて75分かかっている。あまり変わらない。首都高をけちったせいか。
前回使った高滝神社横の駐車場に行くと『使用禁止』のロープ。今日は神社の春祭りのようだ。少し先の湖展望広場駐車場(といっても狭いが)を基点として6:30過ぎのスタートになった。

湖のミトコンドリア朝の眤豸中央に掛かる美しい加茂橋(カモノハシではない)を渡ると、いきなり上りになりカウンターを食らった6年前に懲りて湖畔を右に曲がる。今回はバリバリのローディーさん(失礼!)がやたらいっぱいいる。イベントがあるのかな。日曜日だからだろう。
県道173号を南下する。平均斜度は比較的緩いルートをだが、2つ目の山で早くも足タッチ!。やはり最近動いていないことが致命的だ。前半でドロップアウトしないようにローギアを最大に生かして歩く程度に回していく。
歩くほどに遅いが脚は楽だ。おまけに周りの景色を眺められる。登坂はきついが周りは新緑の季節である。だが自分が走っているところを空からは見たくない。こうなっている。

上総上総中野駅1D車が来た中野駅にAM8:10につく。ここまでの走行16km
レトロな駅舎にゲーキャラ見たいな本多忠勝がプリントされている自販機がちょっとアンバランス。
トイレ休憩していたら列車が来た、もちろん電車ではない。架線がないディーゼルである。汽車という表現もちょっと違う、この場合なんと呼ぶのか。
見ていたらみんな降りてしまった。上総中野駅は小湊鉄道といすみ鉄道の相互折り返し駅で相互乗り入れはしていないらしい。


上総峠2菜の花畑中野駅にから県道177号をさらに南下する。周囲はいたるところに菜の花畑がある。
小湊鉄道やいすみ鉄道も菜の花の中を走る風景が印象的である。
地図で見ていないと通りすぎてしまう小道を入る。本日の最高地点となる峠のトンネル。地図では長いトンネル1本だが実際には2本あった。それでも結構長くて暗い。
トンネルを抜けると養老渓谷の谷合に入る。起伏はあるものの全般的には下りである。今度はMTBの集団に合う。こちらはロード軍団みたいにバリバリじゃないけど、いくつかのグループとすれ違う。トレッキングのイベントかな。
粟又トラブル2トラブル1の滝についたところでトラブル発生。スマホとライトをマウントしているアクセサリーバーが突然折れた!。峠あたりからグラグラし出したのでボルトの緩みかと思ったが、締める間もなく真っ二つ。






応急処置りあえずスマホホルダーをハンドルに直付け。ライトがつけられないが、この先トンネルも多いのでトロップ部に仮付け。でもこの場所使えるかも。
通販安物とはいえ、大して使ってもいないのに買ってすぐ壊れやがってと思ったが、履歴を見たら2年近く経っていた。
走行中に吹っ飛ばなかった分幸いと思うべきか。




養老養老の滝(粟又の滝)2どんどん朽ち果てていく感じの滝(粟又の滝)入り口は、経年で益々怪しい雰囲気を醸し出す。
バリバリローディーさんたちが滝には目もくれずに爆走していく。
何度も来ているところだが、オヤジは観光ポタなので寄っていく。






養老の滝(粟又の滝)1はウォータースライダーのメッカだったが。やはり今の時期は水量がなく迫力はない。








怪しくなってきた観音橋方面へこから老川十字路を抜けて、弘文洞跡に行くのだが、40年近く前に車で夜中に通った道を思いだして通ってみたかったのでいってみる。夜中に車で向山2層トンネルを抜けて山の中の道を走っていったらR465(当時は国道でもないただの地方道だったが)の峠にでたルートを逆走する。
このR465旧道ののぼりが本日最後の難関になる。
坂を上り切ったところにある集落の外れから山間の一本道に入る。夜中に車で走ったとは思えない細い道。HIDもLEDもない時代、唯一の頼みは強化バッテリーから直結した100Wハロゲンとラリー用フォグランプだった。でもここよく普通車で通れたもんだ。
素掘りのトンネル人除け?獣よけ?ばらく行くと山が開けて田んぼになるが、道路以外は電気柵が張り巡らされている。これは獣の侵入防止かそれとも人間の侵入防止用か?。ま、法律上は人間に適用してはいけないことになっているはずだから、誤って触れても死にゃぁしないだろう。
道はさらに悪路になってくる。素掘りのトンネル内は泥だらけだ。おいおいロードタイヤで大丈夫か?。SAGAでくりゃよかった。パセラの対パンク性を信じて進む。
集落が見えると道は急に良くなった。

謎のリフト家のある開けた場所に来ると、不思議なケーブルがあった。リフトと書いてある。地図で見ると川を渡った対岸はバンガロー村になっている。このリフト生きているのか?







6年前もやった?6年前もやった?2洞跡の遊歩道に入り先端まで。6年前と同じ石の渡場で記念撮影。








弘文お不動さま観音橋向山トンネル洞跡から有名な2層トンネル『向山トンネルを抜けて清澄養老ラインに入る。温泉郷の中にある観音橋。『出世観音』で有名な養老山立国寺に向かう参道だが、いまさら出世を願うわけでもないので、対岸のお不動さまで家族の安寧を祈願する。




6年白鳥橋前と同じく白鳥橋をわたり裏道から養老渓谷駅に出る。どの地図でもこの橋のところが『∴養老渓谷』となっている。ここが養老渓谷の中心?‥‥何もない。







養老つっかれたぁ〜眤豸丕渓谷駅からは『清澄養老ライン』を眤豸个妨けて北上する。ここも全体的には下りであるから疲労度は少ない。といっても既に疲労しきっているからパワーは出ない。
高滝ダム駐車場に戻ってきたのは12:45PM。前回に懲りて緩くしたつもりだが、それ以上の脚力の衰えはショックだ。鍛え直すことはしないが乗り続けることは重要である。




本日yourou-againの走行52.1km
車の走行160.1km


本日の機動艦載機 MR−4

音楽のお供
アルバム『TOUCH』『OVER MY HEART』/ローラブラニガン
昨年から突然思い出の中から引っ張り出したように嵌り込んでしまった。
存命ならあの歌声はまだ現役だったかもしれない。


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桜2019-1年も桜の時期がやってきた。
平成最後の桜である。
1年のうちで最も気持ちが憂鬱になる季節。
咲き始めるということが散り始めの第一歩である。





桜2019-2事に咲いて、未練なく散る。
日本人の美学とされる。
でも桜の人生はそれで終わりじゃあない。






「花桜2019-3びらが散った後の、桜がとても冷たくされるように‥‥」何て言う我々の世代では誰でも知っている歌があるが、花弁が散った後の桜は心の片隅の『見せたくないもの』ではない。
花弁が散った後こそ、桜が最も生命の躍動感を見せる時期である。






桜2019-4の咲きはじめはもっとも憂鬱な時期だが、桜が完全に散って新緑が木々を覆い始めるころになると、一気に高揚感が高まる。
これはもう躁鬱状態である






桜2019-5だ還暦にもならないのに、遂に三世代を迎えることになる。俺は今の皇太子さまより長く生きることはないだろうから三世代で人生を終えるだろう。
来年の春は娘にとってサクラサクになってもらいたい。






まぁ桜2019-6俺は桜のように咲き誇ることはできないが、目立たなくていいから長く静かに咲く花で、ささやかなこの人生を送りたいものである。





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イオンモールをうろついていたらこんなEバイクを見つけた。
『アイオンバイク アレグレスeレグレスe』。ぱっと見、電チャリには見えない。シティーサイクルにはあまりにもにつかないボトルに、よく見るとバッテリーである。
思わず『VIVAX』のパクりかなぁと思ってしまうギャグである。
パンフをもらおうとスタッフに尋ねたが「パンフはないので、イオンバイクのHPを見てほしい」とのこと。
さぞや画期的なのかなと思って検索したが、特に大々的に宣伝しているわけでもなく、いつから販売してるとか、主要諸元も載っていない。一般のブログ記事やインプレッション記事もあまり見当たらない。


アレグレスe 3アレグレスe 2かったことといえば、フロントドライブ・4時間充電5段階モードで17〜37km走行・車重20.6kgということくらいである。
コンポは気にもしなかったが、7段変速というだけで察しはつく。
かご・泥除け・チェーンケース等余計なものを外せばクロスバイクっぽく見えるかなという感じ。だが20.6kgに対する軽量化には何ら寄与しない程度である。確かにママ電よりは軽いけど、13.5kgの我が家のSAGA号でさえ重くて辛いと思っているオヤジには電チャリといえども致命的である。
軽量パーツ交換の余地もなさそうである。改めてヤマハYPJ−Rは対したものなのだと実感。
でも、FDということは、リアは普通の自転車なのだとしたら、いっそのことリアを『フリーパワー』+『アルフューネ』なんてぇのはできないものかと考えたら面白い。
そんな愚考するなら、YPJ−ERのほうがよほどいいとは思うのだが、どう考えようと重量と充電という2大障壁がある以上、非力で充電嫌いのオヤジにとってEバイクはちょっと手の出せない乗り物であることに変わりなない。


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3.11は自分も含め日本国民には忘れられぬ日である。
しかしその1日前、3.10は何の日か。
知らない人も多い。74年前の今日、東京の下町は300機を越えるB29の焼夷弾爆撃を受けた。
日本が受けた戦争の惨劇は『広島・長崎』だけではない。
日本の主要都市が爆撃を受けている。
中でも3月10日の『東京大空襲』と呼ばれる空襲においては、深川区・本所区・城東区などを中心に、10万人が命を落としている。
下町は『関東大震災』と『東京大空襲』という度重なる火炎地獄を受けている。
自宅から僅かのところに『東京大空襲・戦火資料センター』という施設がある。東京大空襲などを中心とした戦災の資料や写真・遺品などが収められている。しかしこのような資料館があることは江東区民でさえ知らない人が多い。
現在は、最も甚大な被害を被った江東区でも空襲の傷跡を見ることはない。深川育ちのカミサンは戦前から残ったコンクリートの建物の地下などに残る人の血や油によるシミをいくつも見ているという。
祖父母から聞いた震災の話、親から聞いた戦争の話を子供にも伝えなければならない。しかし自分すら平和ボケした時代の申し子であるから、子供に伝えることが説得力があるかはわからない。
原爆投下、終戦とともに過去の悲惨な戦争について、少し立ち止まって考える日が3月10日である。
黙禱。


サイコン
再婚ではない。そんな甲斐性も暇もない。そもそも『✕』ではない。
トレロックFC535時どうしても欲しくて探し回った『トレロックFC535』を入手してから丸9年たった。
当時、否現在もケイデンス不要、距離と速度と夜間照明が付けば十分というサイコンに6千円は高い。けれど当時はこのデザインがよくてこれにした。






トレロックFC5359年間、3台の自転車で旅を共にした『トレロックFC535』が遂にその積算を止めた。前回の電池交換の際、接続部の金具を破損して以来だましだましで使っていたが、元々断線気味であったようだ。
トレロックが国内でサイコンの販売を中止してどのくらいたつのだろう。FCの900番台まではあったと思う(単なる上級グレードだったかは不明だけど‥‥)
できればトレロックの丸コンが欲しいが、オークションやリサイクルストアを見ても現役使用可能な玉は出てこない。そこそこ高級感があって洒落たデザインで、文字が見やすいものはなかなかない。



✕競汽ぅ灰2りあえずスマホをナビとしているので、原点に戻り『距離と速度と夜間照明』と有線であることを条件に通販の安いものを購入。
ミンティアくらい大きいが、Eバイクっぽくてとりあえずいいかなという感じである。


トレロックはとりあえずミイラ状態にして保管。
あとで何気にとりだしていじったら、天から魂が戻ってきて復活するかもしれないから‥‥。


我が家からまた一つ歴史遺産が消えた。

8年ぶりに副業収入があり確定申告が復活した。
平日は休めそうもないので日曜申告となった。
以前は各管轄税務署に作成窓口があり、毎回そこで作っていたのだが、税務所ごとの作成窓口がなくなり国税局の作成会場に行くことになった。

しかしオヤジはカミさんが昨年税務署に無駄足を運んだことを聞いていたが、税務署HPを見ても実際、「どういう理由でいつからそうなった」と書かれていない。「税務署内に申告書作成会場はありませんのでご了承願います」「確定申告書等の作成には国税庁ホームページ「確定申告書等作成コーナー」をご利用ください」。なにそれ。これだけ高齢者が多いのに不親切すぎない?。お年寄りからもっとお金とりたいのだろ、これでは利用者サービスの後退である。

と文句を言いつつも、納税は国民の義務であるし築地までならポタリングにはちょうどいい。帰りはまた皇居か有明でも回ろう程度に出かけた。
場所は調べておいたので、迷うことなく午前11時過ぎに到着。カミさんから結構混んでいるよと聞かされていたが、駐輪場も混んでないのでタカをくくっていた。国税局に入ると朝の東京駅コンコース並?の人盛り、作成コーナーの整理券を配っていたのでとりあえず受け取ったが、現状表示や待ち時間の案内板があるわけでもない。呼び出しのアナウンスで会場入り口のホワイトボードに進行状況が書いてあることを知る。
呼び出し番号を見てびっくり。400人待ち!!。給与・年金と不動産・売却・贈与のコーナーで分かれているので、半々としても200人待ち。職員を捕まえて尋ねると確実に1時間以上とだけ返ってきた。

しばらく流れを見ていて、『奇蹟が起きない限り90分は切るまい』と思った。待合用のわずかな席は激しい取合いとなっている。日本だからケンカにならないだけである。
時間は十分あるので、外に時間つぶしに出る。
Siriちゃんに一番近くの茶店を聞いたらタリーズが近いというからルート案内を頼む。よく見たら朝日新聞の中だ。とりあえずはいれるので行ってみたら、日曜休業!
「ばかSiri〜ぃ」。知ってたら言えよ〜。
結局周囲をうろうろした挙句、近くのバーガー屋で軽い昼飯をとる。
飯食って時間つぶして戻ってきてもまだ半分くらいである。
しばらく立っていたが、こちらも変性すべり症で脚がしびれてきた。高齢の方も多く申し訳ないなーとは思ったが、やむをえず席取り合戦に参戦。一瞬の隙をついて席を確保する。

待つこと2時間弱。やっと順番が来る。しかしそれですぐ会場に入れるのかと思ったら、そこからまた長蛇の列。ディズニーリゾートのアトラクション待ちじゃぁねえんだぞ!
開場に入れたのは14:30過ぎ。書類を作るのはものの20分程度だが、提出書類としては不十分ではと質問すると「パソコンで入力します」との答え。手書きで出したいといったら、「パソコン使ったことないんですか」といわれたので、「確定申告は書面で出すものだから今までパソコン入力なぞしたことがない」と言い放ってやった。

本来申請は納税者がやるものだが、その事務処理は税務署の仕事だろう!。自分たちがやるべき事まで納税者にやらせるんだったら『ネット割引1万円!』でもやれよ!

それでも日本人のおやじは、スタッフさんに『ありがとう』と笑顔で言って入力待ちの列に並ぶ。
そしたらパソコン入力待ちがまたディズニーアトラクションのようなつづら折りの長蛇。
脚が痺れて辛い。もう怒りを通りこして『開業直後のスカイツリーのエレベーター待ち』くらいワクワクしてきてしまった!!
結局手続きがすべて終わったのが16:00を回っていた。4時間半辛い思いをして十数万円を国税として納めるのだ。そりゃディズニーリゾートよりよっぽど楽しいよ。列で待ちながらカレーポップコーン食べられなかったのがちょっと残念である。

もう夕方で、脚も辛いのでポタして帰る気も失せてしまった。
最初は「来年はネットでやろうと思ったが気が変わった。
来年はもう少し段取りをよくする計画を立ててまた来るぞ!



34天川二子山古墳北東側全景34天川二子山古墳3神社から前橋市街を抜けて旧利根川流路である広瀬川台地

に向かう。区画整理された新興住宅地の中にいきなり現れる100mを越える大型古墳は『天川二子山古墳』。駐車スペースはない。スルーしようと思ったがかなり良い保存状態で見学しやすいので、ほんのわずかな時間路駐させてもらい撮影する。横穴石室をもつ古墳とされているが未発掘のようだ。



『天35八幡山古墳135八幡山南西側全景川二子山古墳』から東南2kmのところに隣接する2基の大型古墳がある『八幡山古墳』と『前橋天神山古墳』である。この2基は今回のツアーのきっかけとなったメインイベントの古墳である。この2基だけは外すことはできない。八幡山古墳の横はグランドになっており、グランド使用者が停める広い駐車スペースがある。八幡山古墳は4世紀中葉に築かれた、墳丘長130mという東日本最大の前方後方墳である。毛野の地域勢力はそれぞれ前方後方墳から前方後円墳に移行するパターンが多い。その中でも際立って大きく保存状態もいい古墳である。

36前橋天神山古墳436前橋天神山古墳3幡山古墳から住宅地の中を歩いていくと住宅に囲まれた、不思議な盛土がある。20数年前、独立王権として関東全域に君臨した毛野王国の存在がセンセーショナルに唱えられていたころ。毛野王国の繁栄の象徴としてのシンボルマークとされていた『前橋天神山古墳』の名残である。今では独立王権としての毛野王国の存在は否定されているが、ヤマトの影響下のもとに北関東の地に栄えた血族連合の盟主的豪族の奥津城としての威容は変わらない。


群馬36前橋天神山古墳1県はもっとも後世に残すべき、郷土の誇りである遺産を失った。群馬こそがかつての関東の中心、関東の覇者であった証を。壮大だった墳丘は70年代初頭に開発により消失。前橋市発展の人柱となった。

消失以前に残された古墳全景写真を見ながら、かつてこの地に君臨した強大な権力とその威容を偲ぶことにしよう。




37お富士山長持形石棺37お富士山古墳全景1駒形バイパスに出て伊勢崎方面に向かう。オートレース場を過ぎ左折し広瀬川と両毛線の陸橋を越えると左側に小高い森が現れる。『お富士山古墳』は前方部を線路で削消されているが後円部は神社として残されている。境内には長持ち式石棺が置かれている。これはヤマトの影響を色濃く残すもので、関東には太田天神山とここにしかない。ここの被葬者は太田天神山の王と関係があるのか。それとも別の意図でヤマトに認められたものか。


冬の38大室公園日は短い。お富士山古墳から再び前橋市に入り、赤城の扇状地を北上すること9.5kmで大室公園につく。ここは大室古墳群を中心とした総合公園として整備されている。公園の南北に広い駐車場がある。すでに斜陽の中3基の古墳を回る。南駐車場に停めると右手に『前二子古墳』、正面に『中二子古墳』が見える。





39中二子古墳39中二子古墳全景二子古墳は大室古墳群最大の古墳で、毛野の有力豪族の共通の始祖である皇族『豊城入彦命』の陵墓との言伝えにより、過去より良好な保存状態が保たれてきたようだ。持ってきたのは公園整備される以前のガイドブックだったため周濠部が池となって水を湛えている写真だったが、今は空堀となっていた。



41小二子古墳240後二子古墳3二子古墳の北側にほぼ同時期の築造とされる『後二子古墳』と『小二子古墳』がある。後二子古墳は大室古墳群の3基の大型古墳中では最も新しく、規模も小さい。石室が見れるが立ち入りはできない。

小二子古墳には埴輪が飾られている。




38前二子古墳138前二子古墳2二子古墳は道路を隔てて公園外にあるが、保存状態はとても良い。3基の中では最も古い。後円部南側に石室がある。

大室公園はそこだけで1日いられるくらいの見どころ・遊びどころがあるのだが、20分程度しか時間の都合がとれなかった。捲土重来を期したい。




矢継ぎ早2日間の上毛野古墳遠征は終わったが、完全制覇には程遠い結果であった。

現地に来るまでの上毛野の古墳は、その大きさだけに気をとられていたが、むしろ多様な形状と見応えのある石室、数多くの副葬品に面白さがあった。上毛野地域には自由に立ち入り見学できる大型の石室を有する古墳も多く、情報源になる施設を合わせて探訪することで新たな楽しみ方につながる。その意味でも2日間では余裕がなかったことと、下調べの悪さから多くの見応えのあるポイントを逃してしまっていたことが悔やまれる。

車は遺跡間の移動時間が速いが、古代の時間的行動範囲との感覚のギャップがありすぎる。そういう意味では自転車の距離感のほうが多少なりと古代の感覚に近いということかもしれない。ゆっくり見学できなかった資料館や見逃してしまったポイントも含めて、必ずやリベンジを果たしたい所である。

今回は駐車スペースや情報摂取で博物館や資料館を利用させてもらったが、職員やスタッフの方々にとても親切丁寧に対応していただいた。皆さんありがとうございました。

 

2日間の走行 416km

燃料消費   47.36L

燃費   8.78km/L 結構頑張ってくれた。

音楽のお供

アルバム:[ホールド ミー]・[ベスト オブ ローラブラニガン]/ローラブラニガン


散策史跡・施設一覧

追伸
ランダムな資料より古墳サイズを掲示していたため、基本は群馬県教育委員会発行の『ぐんま古墳探訪』平成30年度版より、前誌見掲載だった古墳については群馬県立歴史博物館友の会発行の『古墳めぐりハンドブック』平成2年度版より参照修正した。


翌朝18二子塚古墳2は7:45出発。観音塚古墳を目指す。考古資料館は開館前だったので二子塚古墳と平塚古墳は路駐となった。
『二子塚古墳』は中型の前方後円墳だが保存状態はよい。周囲に大きな石材が無造作に散らばっているが古墳との関連性は不明。






『平19平塚古墳後円部19平塚公園塚古墳は』3つの古墳の中では最も大きいが周囲は鬱蒼とした竹林で全体像は掴みづらい。後円部から鞍部にかけては墓地となっている。







『観20観音塚古墳全景20観音塚考古資料館音塚古墳』の周囲を回ったが、停めるスペースがなかったため考古資料館に戻ったら門が開いていたため停めさせてもらって徒歩にて向かう。
観音塚古墳は終末期の前方後円墳で前方部が突出して大きい。






20石室120石室開口部古資料館の方に解放されている巨大な石室に入れるということで懐中電灯をお借りした。
資料館の方も同行されたが、国指定の史跡であるので、毎朝異常がないかチェックしているとのことだった。今回の探訪では、資料館や博物館の職員の方々がただそこにいるわけでなく、文化財保全のためにいろいろされていることがよくわかった。



21かみつけの里博物館121かみつけの里博物館5幡古墳群から『かみつけの里博物館』に向かう。
博物館や資料館は『撮影NG』というところが多いが、この上毛野の地においては、特定の撮影禁止展示を除けば、「撮影フリー」になっている。毎回「写真撮ってもいいですか」とお伺いをたてるのだが、「ダメ表示場所以外では、フラッシュ焚かなければご自由にどおぞ」という感じである。どこの施設もとても開放的である。
周辺を回るため、また艦載機で出撃する。積んできて正解だった。


今は22三ツ寺遺跡跡222三ツ寺遺跡跡1埋め戻されて何もない『三ツ寺遺跡』跡。これがかみつけの里の一部として完全復元されたら、まさにビッグミュージアムになるだろうと思われる、他とは群を抜いたスケールの豪族館跡である。この地の豪族は『車持氏』という見方も出ている。かつてこの地は榛名山大火で大きな打撃を受けたというが、その後も車持氏は衰退することなく、後に『東国六腹朝臣』として貴族社会の華を咲かせることになるわけだ。まあ、この辺じゃクルマが必需品というのは今も昔も変わらないということか。


23後円部頂上石棺23薬師塚古墳全景渡打古墳群で最も新しい『薬師塚古墳』、保渡田古墳群最大の『井出二子山古墳』、全体を吹石で再現された『八幡塚古墳』の順に回り博物館に戻る。
薬師塚は西光寺の境内にあるため、他の2基のように復元整備はされていないが、本堂の裏手から後円部に上がると、埋葬されていた舟形石棺が展示されている。ご本堂に手を合わせてからいくことを忘れないように‥‥



24井出二子山古墳全景24後円部から前方部渡田古墳群最大の『井出二子山古墳』。二重の周壕も含めて復元整備がされている。周壕の中に4つの『中島』という造出しのような不思議な施設がある。






25はにわ25八幡塚5渡田古墳群を代表する『八幡塚古墳』。過去に吹石で復元された古墳もいくつかを見てきたが、ここまでくると何か超古代もの的観すらある。
よくテレビ等でも紹介されている前方部に復元された埴輪はそれぞれ儀式の様子を再現している。ここは虫や蛇などの心配はなさそうなので、もっと暖かい季節に訪れたいものである。




かみ26七重塔復元模型26上野国分寺館つけの里博物館から総社古墳群に向かうルートの途中に上野国分寺跡があったため予定外にに立ち寄る。ここにはかつて60mの七重塔があったという。60mといえば東寺の五重塔より大きい。8世紀にこれだけのものが築かれるのは、やはり上毛野が古墳時代以降も東国の中心文化発信地であったのだろう。
さらにルート上には『山上碑』に関わりのある『山王廃寺跡』があるが、時間がなく今回は断念。廃寺と聞くとヨーデルが浮かんできてしまう。その『ハイジ』じゃないだろう。でもまんざら無関係でもないかも。仏教の浸透は『トライ人』に負うところが大きいのだから‥‥
総社27総社歴史資料館227総社歴史資料館1歴史資料館に車を停めて、資料館で周辺古墳の地図をもらう。ここはまた艦載機で回った方がよい。目の前にある『蛇穴山古墳』と『宝塔山古墳』を見学する。






28蛇穴山古墳石室28蛇穴山古墳1穴山古墳』は一辺40mの方墳、終末期の古墳である。

群馬県史によると、宝塔山古墳は『彦狭島王』墓、蛇穴山古墳は『御諸別王』墓の候補とされていた時期があったようだが、両王が4世紀の人物とすると時代が全く符合しないようだ。





29宝塔山古墳石室329宝塔山古墳石室129宝塔山古墳1料館の西側、道路を挟んだところに『宝塔山古墳』がある。一辺60mと龍角寺の岩屋古墳には及ばないものの、方墳としては大型である。共に石室は自由に見学ができる。



宝塔30愛宕山古墳石室230愛宕山古墳石室130愛宕山古墳1山古墳から北西500mほどのところに『愛宕山古墳』がある。石室開口部はすぐわかり立ち入りはできるが、入口は埋もれていて砂埃だらけになる覚悟が必要。雨天や雨上がりでは泥だらけは必至だが内部は一見の価値がある。

『総31総社二子山古墳531総社二子山古墳1社二子山古墳』は総社古墳群としては最大にして最後の前方後円墳である。ほぼ素通りしてしまったため、2つの石室があったことを通過後に気付いたが時間的余裕がなく引き返しを断念。遠見山古墳に向かう。






32遠見山古墳1見山古墳は総社古墳群の中では古い部類の古墳で横穴石室はない。現在は何か発掘調査中のようだ。
山王古墳まで足を延ばすつもりだったが、ここも時間的に割愛せざるを得なかった。







33上野総社神社1料館に戻り艦載機を収納。上野総社神社に向かう。上野国549柱の神々の総鎮守で、県内でも最も由緒ある社の一つである。上毛野氏の祖『豊城入彦命』の創建と伝えられるが、ここを訪れた理由は、かの『上毛野君小熊王』が「社殿を改築し郷名に因み『蒼海明神』と称え里人の崇敬を集めた」とあるからである。
『上毛野君小熊』の名は、史書に初めて『上毛野君』の称号が付いた王である。『君』はカバネの中では最も高く、畿外で一定の規模と大幅な自治権を認められた地在豪族に賜る地位である。しかしそれはあくまでヤマトの支配制度の中で存続するもので。ヤマトの影響外の独立主権に対するものではない。



小熊のおみやげ33上野総社神社2系譜は不明である。竹葉瀬を祖とする上毛野氏の直系ではあろうが、父母も子も記されてはいない。武蔵国造の乱ではヤマトに敵対したかのような描かれ方をしているが、総社神社の由緒のように、上毛野国内では民衆にも支持された王であったともとれる。
いまの社殿は戦国時代以降今の地に移されたもので、それ以前のものも小熊時代のものではないだろう。県内有数といわれるパワースポットにお参りし、小熊王にあやかり土産にお守りを買う。


『綿12石室12綿貫観音山全景12綿貫観音山古墳1貫観音山古墳』は今回の古墳の中で唯一過去に来たことがある古墳である。盗掘を免れたのかかなりの貴重な出土品が出ている。駐車場も広くトイレもある。


13綿貫不動尊13不動山古墳3音山駐車場より搭載した艦載機で出撃。不動山古墳と普賢寺裏古墳を見る。






『不動13不動山古墳全景13不動山古墳石棺山古墳』はその名の通り綿貫不動尊となっている。後円部の階段を上りと不動堂が鎮座している。お不動さまにお参りしてから不動堂の裏手に回ると、発掘調査でに使った舟形石棺が置かれている。前方部はかなり変形して100m級の古墳には見えない。






14普賢寺裏古墳賢寺裏古墳はお寺の境内を回っていくのだが、時間がないので割愛した。住宅地の間から古墳の一部を望むことができる。








綿15後方部より前方部15東側より全景貫観音山古墳から『元島名将軍塚古墳』に向かう。博物館でアドバイスを参考に、裏の道に路駐する。駐禁標識はなく、ご近所の迷惑にもならないだろうがあくまで自己責任である。






『元15元島名将軍塚島名将軍塚古墳』は毛野地域でも初期段階の古墳とされ、数少ない前方後方墳である。時間があれば『高崎市歴史民俗資料館』に車を停めて歩いていけば、帰りに将軍塚の出土品も見ていけるのだが今回は割愛する。







16洞窟観音通路116洞窟観音入口日の古墳探訪はここで切り上げて、せっかくの一泊旅行なので観光もしたい。
宿は高崎市内に取ってあるので、チェックインまでの間、高崎観音山の『洞窟観音』と『高崎白衣大観音』を見学する。
洞窟観音は個人が資材を投入し手掘りで掘られた洞窟である。大船にある『田谷の洞窟』のようなイメージだったが、修験洞ベースではなく、元々万人のためにつくられたものなので、足場もよく歩きやすい。全長は400m程だが、見ごたえはある。

16洞窟観音416洞窟観音5着は15:40。16時閉門なのでちょっと焦ったが、10分ほどで回れるとのこと。入口で安置されている観音さまのご利益一覧表?をいただいたが、守り本尊である『千手観音さま』には「万能の観音様」と書かれていた。流石千手観音さま。よろずOKということか。





17高崎白衣観音317高崎白衣観音7窟観音からつづら折りに走り、観音山の白衣大観音に行く。こちらも16:30閉門ということだが、30分弱あるので十分だろう。
白衣大観音はかなり前に一度訪れているが、胎内がどうなっているか忘れてしまっていた。
胎内に入ると、東京湾観音のような螺旋階段ではなく、直線階段で上階に上がる。内部は9階まであり各階に神仏が安置されている。最上階は御肩の部分で外部展望台はない。小窓から高崎市街が一望できる。
本日最後の拝観者だったようだが、閉門までには余裕があった。本堂である慈眼院にお参りしていく。



この17高崎白衣観音8ハートは何だぁ。
今は縁結びの赤い糸キャンペーンもとい、祈願祭の期間中なのだそうだ。観音さまから赤い糸が前後に結ばれている。

高崎市内で一泊する。仕事ではないので宿泊費制限もないが、大浴場・駐車場・朝食込を考慮すると、仕事で指定されるホテル相場より割安感がある。大浴場(といってもそれほど大きくはないが‥‥)がゆったり貸し切り状態だったのが大満足。マッサージ機があれば文句なしだったのだが‥‥


先週要所からのオイル漏れが発覚。シーリング剤での応急処置なので様子みいみいの走行でやってきたのは、現在も残る律令制国での上野国。古の『毛野』と呼ばれた沃野の中心、群馬県前橋都市圏。

今回はいよいよ20有余年来の念願であった上毛野中心地域の古墳探訪である。

前橋都市圏は群馬県の中核を成す地域で、それは古代から受け継がれているのだ。オヤジの古墳めぐりのキーとなる『墳丘長100m以上の大型古墳』をとっても探訪ルート内に15基あり、1日では回れない。

ルート称古墳マニアながらこの歳まで関東でも最大の大型古墳密集地、上毛野エリアを訪れていないのは、遠方であるだけでなく、見どころ満載の大型古墳が多すぎて一度では回れないため、機を逃していたということもあるが、『真打は最後の楽しみ』にしたいということが根底にあった。

元々は輪行ツアーで計画したものだったが、今回はサイクリングすることより少しでも多くのポイントを回ることを優先にするため、車による探訪に切り替える。古墳探訪目的としては1泊2日の計画も初である。


AM7:30 富岡IC着。

一抹の不安があるものの、ショックを変えてからはやはり快適な旅であった。

 

1笹森稲荷1笹森稲荷参拝者駐車場回は訪問ポイントが多いため、各古墳及び遺跡の概要は一覧にまとめた。今回は車で来たので道路状況や駐車ポイントなどを特筆。

本日の第一弾は『笹森稲荷古墳』。

鞍部が大きな社殿のお稲荷様になっている。先ずはお稲荷様に本日の無事を祈願。



笹森1笹森稲荷古墳全景1笹森稲荷後円部へ稲荷古墳は100m級の大型古墳だが大きな社と木々に覆われて全体像がつかみにくい。

事前調査が不十分で、かなり大きな横穴石室があるのを見逃してしまった。

参拝者のための広い駐車場とトイレがある。



2天王塚古墳12天王塚全景笹森稲荷古墳から5分ほどで『天王塚古墳』につく。80m級の古墳だが全体像がはっきり見えるのでそこそこの迫力がある。後円部に舞台のような施設がある。後円部から見る浅間山が見事。

車3台くらいが停まれる駐車スペースときれいなトイレがある。古墳までの道は狭い。

すれ違いはおろかミラーをたたまないと抜けられないような道が結構ある(5ナンバーなら問題ないが)。

3多古碑正面3多古碑1はあまりにも有名な『多胡の碑』。新設の多胡郡と、渡来人の『羊』さんという人が郡司に任命されたことが刻まれている。7世紀ころから上毛野は多くの渡来人が入植してくるが、ヤマトの毛野に対する牽制か、毛野が積極的に迎え入れているのか。上毛野氏は『皇別』という上級氏族でありながら渡来系の系譜も持った不思議な氏族である。

道は狭いが案内板などはしっかり整備されおり、広い駐車場がある。



3多古碑古墳23多古碑記念館の裏に多古碑記念館と竪穴石室を持った小さな円墳がある。

資料館はまだ開館前なので、古墳を見ていく。





次に4稲荷山後円部より全景4稲荷山古墳全景IMG_3508向かうのは『白石稲荷山古墳』。R254を左折し県道173に入ると目前に巨大な墳丘が見えてくる。思わず車を止めて見入ってしまった。墳丘長140m、後円部高12mだが河岸丘の縁に築かれているため、巨大古墳クラスに見えてしまう。見事な演出効果である。




後ろ4前方部から後円部に止まった車の方とお話をしたところ、藤岡歴史館の方だった。これから回るルートなど話して、駐車スペース等情報をいただいた。藤岡歴史館に立ち寄ることを勧められたが、時間の都合で寄れなかった。ごめんなさい。いつか機会を取ってまた来ます。

丘陵の上に面した後円部からの展望が素晴らしい。白石稲荷山古墳に駐車場はないが、前方部前に空き地があり停められる。



白石5恐怖のS字稲荷山古墳から藤岡歴史館の前を通り、教習所より狭いガードレールの無いS字の急坂を下ると『七輿山古墳』につく。南側の空き地に停めたが、北側にきれいな駐車場とトイレがある。大きな車は遠回りでも県道回りで来ることをお勧めする。怖かった。





5七輿山25七輿山前方部より全景若いころ、スキーや林道ツアーでよく通った道で、大きな古墳があることは知っていたが、ついに今まで訪れることができなかったところである。河岸段丘の下側にあるにもかかわらず、後円部より高い前方部と広大な周壕が迫力満点である。一部には『上毛野君小熊王墓』との見方もあり興味をそそる古墳である。



5首なし羅漢5七輿山南全景2輿山には羅漢像があるがすべて首なしである。神仏分離により神の聖域に仏は邪宗という意味合いから首を切ったらしいが、ぞっとする光景である。七輿山という由来も「昔、謀反を起こしたとされる豪族の妻子7人が、この地で自害し、7つの輿に入れられた」という言伝えによるもので、その豪族は多古碑に出てくる『羊』さんと同氏名。同族か。



七輿6伊勢塚石室26伊勢塚古墳全景山の北側のバイパスのローソンでお買い物をする。ついでにローソンのすぐ裏の『伊勢塚古墳』を覗いていく。小円墳だが石室が見事である。あくまでお買い物のついでなので早々に切り上げる。





7山上碑と古墳7かなり山の中川を渡り『山上碑』と『山上古墳』に立ち寄る。名前の通りかなり山の中である。多胡の碑は結構オフィシャルな内容だが、こちらはこの地の僧が母親の死に際して古墳に埋葬したというプライベートな内容である。山上古墳は埋葬者名がはっきりわかる数少ない古墳の一つである。




7山上碑17山上古墳石室7山上古墳2処から本日のメインエベント、『倉賀野浅間山古墳』に向かう。ヒ(碑)マニアからすると上野三碑といわれる2つに行って『金井沢碑』に寄らないのかと突っ込まれそうだが、あいにく碑マニアではない。




浅間8大鶴巻前方部から8大鶴巻古墳全景山の前に『大鶴巻古墳』・『小鶴巻古墳』による。住宅地の中にあり駐車場はない。団地の空き地に短時間停めさせてもらったが、基本は駅前の駐車場からレンタルサイクル等で回る方が良い。





大鶴9小鶴巻古墳全景巻古墳は住宅地の中にあるが、周壕部が畑となって残っているので全体像ははっきりつかめる。後円部から小鶴巻古墳の一部が望める。長時間停められないので小鶴巻古墳まで行くのは断念する。

県道に出てスーパーの駐車場に入る。ここからすぐ裏の『倉賀野浅間山古墳』に行く。

料金制なら堂々お金を払うのだが、ゲートの無い駐車場なのでスーパーでお買い物をすることを忘れてはいけない。




『倉10倉賀野浅間山北東より全景10南より全景1賀野浅間山古墳』、墳丘長県下2位、関東でも3位という大型古墳。今は住宅地になっているが保存状態は悪くない。太田天神山のように2重の周壕を形成しており、稜域の総長は250mに及んだとされる。広大な内壕ははっきりと形を留めている。稜域総長360mの超ど級太田天神山が築造されるまでは関東最大の陵墓だったとされる。航空写真でも圧倒的インパクトがあるのに、実際初めて目前で見る浅間山は大型古墳共通の「他を圧倒する威圧感」がない。写真を撮るにも全景が入らず困るくらいの巨大さなのになぜだろう。

10後円部への道10後円部正面方部は冬にも関わらず鬱蒼としている、後円部の頂上は開けていることが多いが、ここはやはり草茫々。頂上からの景色も上毛野の最高首長墓をイメージする天下を望む景色でもない。

この地が選ばれた理由は何だろう。古墳の比定地には必ずビジュアル的効果が盛り込まれる。築造当時の形状や周囲の地形も今とは全く違っていたのかもしれない。


スー11常設展示11県立歴史博物館パーに寄ってお買い物をしてから、次の『県立歴史博物館』に行く。ここは常設展示として『綿貫観音山』の出土品を中心として古墳時代の展示が多い。流石古墳大国群馬也。

博物館で職員の方に元島名将軍塚の駐車スペースを尋ねる。詳しいスタッフに聞いて回ってもらったのか、別のスタッフさんが地図を作ってくれた。結局周囲の駐車可能な場所での路駐しかないようだ。


11レストランころむす昼食11お土産ュージアムで、小冊子を買って、美術館に隣接するレストランで昼食をとり『綿貫観音山古墳』へ向かう。

途中に不動山古墳と普賢寺裏古墳がある。どちらも参拝者用の駐車場はあるはずだが、時間があれば観音山駐車場から十分歩ける距離である。




 





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幼い頃、母がよく言っていた。
「お前が大きくなって会社勤めで上役になったら、車を買って乗せてもらえるかもしれない。それまで生きてるかわからないけど。」
東京オリンピック前後、高度経済成長の波に乗りモータリゼーションは身近なところまで来ていた。マイカーを生涯の夢としていたほど我が家は貧乏ではなかったはずだが、戦前・戦後を山村で過ごした母にとっては、車は軍隊か特権階級の乗り物との意識が抜けなかったようだ。
時代は母の想像を新幹線並みに追い抜いていった。ポンコツながらわずか十数年後の学生時代に車を持つことができた。
オフロードバイクに乗っていたこともあり、車も林道や河川敷の未舗装路が好きだったが、ラリー車に興味があったので、もっぱらクーペタイプの乗用車志向だった。

社会人としてそれなりの給料ももらえるようになり、結婚の話が出始めたころ。
当時はWRCで4WDクワトロが世界を席巻しており、国産ではレオーネがG1で実力を発揮していた時代だ。当時オヤジにとっては『明日はレオーネ、いつかはクワトロ(三越のキャッチコピーのパクりか?)』であった。
そしてあの衝撃、「レオーネのサファリグループA優勝」。総合では6位だったと思ったが、そんなことより、『ノーマルでサファリを制した(もちろんグループAといえども全くの市販車ではない)クルマ』はオヤジにとっては奇蹟の車だった。
RX-2RX-2(2)986年4月、待望のRX2クーペ発売。結婚資金以外の全貯金を下ろして即購入。購入後、車高アップと異形樹脂ヘッドライトから当時レオーネバンの仕様だったガラス角目4灯にしてハロゲン100W4灯に変更。新婚旅行は車での北海道・東北旅行となった。

RX-2−3RX-2−4オーネRX2はオヤジには国産車の到達点であった。この車で富士JJに行くのが何ともいえない快感だった。長く乗るつもりだったが、事故を起こし正面を大破した。保険が満額下りるから買い替えた方がいいという保険屋の意見を退け直して乗ったが、その後故障が相次ぎ、結婚後親を乗せるようになって2ドアの不便さを指摘されるようになり、泣く泣く6年半で手放した。今でもカミさんはあの車が一番よかったという。

夢にまで見た車だから後継車種が見当たらない。でもクワトロ買うお金なんかない。行き当った車が『エテルナZR−4』だった。当時2L最強といわれたVR−4の姉妹車だ。当時210PSは3Lクラス以上だった。これならレオーネから乗り換えても満足するだろうと決めたが、残念ながら『いいねマーク』が付く車ではなかった。確かにパワーはすごい。高速は楽だ。質感もレオーネより格段に良い。でもなんとなく面白くない。操作性は重く、林道をがんがん走れるわけでもない。3年半乗ったがこの車には強い印象がない。今となっては写真も残っていない。

エテルナを買って、しばらくしてからある写真に出会う。カーショップかスタンドの待ち時間だったと思う。
ステZG40ーションワゴンのようだが、今まで見たことのない洗練されたデザイン。1カットの走行写真だが小さくチェロキーの文字があった。チェロキーはクライスラーのジープブランドの4WDで当時低価格戦略と右ハン仕様で日本に攻勢をかけていた車である。チェロキーは知っているがこんなかっこいい車ではない。何か別の記事だろうくらいに読み流してしまった。
しかし写真の洗練されたデザインがどうしても気になり、当時チェロキーを扱っていたホンダに聞いてみて、それがカーライフを大きく変えることになるグランドチェロキーという車であることを知る。



現物ZG40-2を見て「これは絶対欲しい」と思った。外装・内装ともに洗練されたデザインは、それまで抱いていた「アメ車はダサい、四駆はごつい 」というイメージを完全に粉砕した。そしてその瞬間アウディはどこかに消えてしまった。
4Lと5.2Lを配するGチェロキー、5.2Lで470万は現代のコンパクトカーやエコカーと比べたら200%以上の割安である。車体からみたパワーバランスではむしろ4Lで十分というものだった。4Lと5.2Lの差は40万円。本当に悩んだ。
しかし、エテルナも安い車ではない。車検とる前に買い替えるほどの余裕はない。ペンディングに近い状態で、パンフを眺める日々が続いたある日。たまたま同僚に車が欲しいことをを話したところ、クライスラージャパンに親友がいるから紹介するという、思いもよらないめぐりあわせが舞いこんできた。
早速紹介してもらい商談に入ったが、親友の同僚だからか、こいつは絶対逃げないと思ったからか、1年後のマイナーチェンジに合わせて4Lが右ハンドル仕様化、しかもチェロキー戦略に合わせて大幅プライスダウンがあるから待てという。
「1年でも2年でも待つ、予約もする」と唾をつけて1年。
そしZG40-3ZG40-4て96年春、遂に我が家にZG40LTDがやってきた。
下取りもあったが、諸経費込で400万円でマイナーチェンジの新車GチェロキーLTDを手にした。下がった分の費用で100ハロゲンとランチョの室内コントロール付のエアサス2.5インチアップキットを装着した。
それからは林道三昧の生活だ。2.5インチアップしてもパジェロやハイラックスよりローフォルムなボディに高級サルーン並の内装、本革電動シート。ベースアンプ付きインフィニティオーディオ。RAV4‐Vと変わらないサイズに4Lエンジン。これで林道やダートをほいほい走れるんだからもううれしくてたまらない。関東甲信越の林道を走り回った。『SUV』というジャンルが定着しつつある時代だったが、見せかけだけのなんちゃってSUVとは違い、モノコックボディ以外はクロカンと互角である。林道・スキーそしてプレステージ。歴代車で最も楽しいカーライフであった。

7年半で10万km乗った。頑丈が取り柄のJEEPと思っていたが、さすがに故障の連打に見舞われる。オヤジ的にはWG4.6Lが欲しかったが、貧乏家計のやせ我慢は限界だった。両親が年老いてリフトアップの車体に乗れなくなったこと。子供ができて5人乗りでは対応できなくなったことでミニバンを探すことにした。

丁度このころ目にしていたのが、奇しくも今の車プレサージュであった。ミドルクラスのローフォルムミニバンの多くの車種が3Lを最上グレードにしていた当時、3.5L、しかもデフロック付き4WD仕様があることに驚いた。ただ、Gチェロキーと比べるとあまりにもチープな内装と、林道はおろか砂利道も走れないんじゃないかと思われるフォルムに躊躇している間に、世話になっているセールスが次期車種を見つけてきた。
凡ボイジャー2イスラーボイジャー。紹介されたのはショートボディーながら、3.8LのAWD。かなり重とろい車だったが質感はそれなりによく、1950mmというワイドボディーに、初めての四灯HID仕様は結構気にいった。
しかし、ハズレだったのか細かいトラブルがボディーブローのように効いてきた。そのころはアメ車ピンチの時代でクライスラージャパンも閉鎖し、Gチェロキー以来よくしてくれたセールスも辞めていたので、クライスラーへの未練はなくなっていた。


唯一WG4.6Lへの未練を残しながら、後継ミニバンを探し始めた。
候補は出たてのMPV2.3L4WDターボ。しかしネックはやはり価格だった。ボイジャーも飽きたわけでもないので、トラブル時は日本車ディーラーに持ち込み、なるべく修理代をけちってだましだまし乗っていた。
そのkarano09karano年の10月、メッセの帰りに立ち寄ったカレストでこれまた運命というべき現在の愛車に出会う。
2004年式3.5X4WD「林道はおろか砂利道も走れない」とこぼした車である。
何故か検切れの車であったし、当時は『赤』い車には抵抗があった(因みに今は赤大好きである)。
しかし、上級グレードのフルオプションなのに安い。走行も1万kmそこそこなのに諸経費込で新車購入の約半額である。同年式の2.5Lモデルより20〜30万安い。思わず『ワケありを疑ったが、セールス曰く「廃車になっているがワンオーナーで事故はない。2.5で十分な車なので、維持費や燃料代の高い3.5は需要がない」とのことだった。
八柱霊園さくらエーデルワイス2ことにした。さすがにこの価格でボイジャーを高価に下取りはできないといわれたが、車検費用くらいは賄えた。規定でタイヤは新品をつけるというので、差額払いでワイドなスタッドレスにしてもらった。
安く買った分、今までのどの車よりアフターパーツに注ぎ込んだ。
12年半と保有期間も走行距離も歴代トップとなった。そして修理代も前面大破で満額の保険代を使ったレオーネは別として、Gチェロ・ボイジャーを抜いて、累積ではトップとなってしまった。
この車を買って正解だったかはわからない。でもたぶん正解だったのだろう。ケチつけながらも飽きずに乗っている。
だが、現行車もカーライフの終焉まで乗れるわけではない。次に買う車がおそらく人生最後の車となるだろう。『サポカーSW+4WD+フルサイズチャリが積める』で探そうと思う。しかし、歴代の愛車たちのコスパを考えると、現代の車は高すぎる。
車に対する価値観は人それぞれだろうが、ハイブリッドや安全サポートなどの付加価値が充実したとはいえ、軽や1.5Lさえ手軽に買える値段ではない。次も気長にUカー探しになるだろう。








変更前5変更前2ンコンポを105で10速化して以来、しばらくお蔵入となっていたMR−4。
最近MRー4をチョイノリに復活させたが、前々よりタッチが気になっていたブレーキレバーを交換する。
現在装着しているブレーキレバーは『テクトロRL341』。テクトロのスモールハンド用のレバーだ。ディズナの『Jリーチレバー』とどちらにするか迷ったが、当時シルバーレバーのみだったJリーチレバーに対し、見た目のバランスからRL341オールブラックを装着した。当然価格的インセンティブもあった。
しかし実際使ってみると、使い良さという点ではやはり『Jリーチレバー』に分が上がる結果となった。
ディズナJリーチレバー変更前6ンラインレバーを使わなくなったことから、ジャイアントのエルゴコントロールレバーを取り外して、ブレーキタッチの向上とハンドル周りの整理をする際に、あわせて『Jリーチレバーのオールブラックに変更することにした。オールブラックは昨年追加発売されたアイテムだ。






『J341とJリーチリーチレバー』『RL341』。どちらも手の小さいサイクリスト用だが形状はかなり違う。ブラケットとレバーの最峡部は「スーパーモデル並みの括れ65mmと「正月に雑煮三昧の生活を送ったOLのウエスト約75mm」。その差約10mm。75mmでもSTIよりかなり引き易いが、この約10mmは手長170mm程度の人間には強烈なアドバンテージである。
リターンスプリングもJリーチレバーのほうが弱く、戻りの感覚はやや落ちるが、『引く』という点ではかなり軽い。




交換中1変更前3ンナーは再利用のつもりだったが、痛みが目立ったためリアだけ追加し、フロント前はテコ焼きで再利用する。手持ちワイヤーはシマノの一番安い奴だが、取り回しが下手なのかどうしてもリアのレスポンスが落ちてしまう。アウターを買いに近所の自転車屋に行った際にギザの1.5mm径を購入。シマノより0.1mm細いので中間の抵抗が多少減るか期待。
サブレバーを外すため、アウターは再利用できない。手持ちはシマノブルーとフォログラムレッドのみ。どちらもいいマッチングではないため、買に来たが、黒がなかったため結局手持ちのシルバーにした。



交換後3交換後1テープはフィジーク。これはお気に入りなので再利用する。もともとクッション性の高いテープなので、中に入れていたバージェルをやめる。サブレバーもなくなったので、コンパクトなレバーとともにかなり細身なイメージになった。
Wレバーハンドルマウントとバーコンの組み合わせもそのまま。ここがSTIとは一味違うご愛敬の部分。




『R交換後L341』から『Jリーチレバー』への変更と『エルゴコントロールレバー』取り外しで200g弱の軽量化になった。昔は数字の遊び宜しく、グラム単位の変化に一喜一憂したが、今はほとんど意味のない数字である。純正の『PERFORMANCE LITE D2サドル』と、今付いている『サギサカ超ソフトスポーツサドル』だけでそのくらいの差は御破算だ。
何しろ「背に尻は代えられない」から
そもそもドロップ化した当時から自分の体重自体が3000g近く重量化してしまっているのだから、何をか言わんやである。

役所2019初乗り22019初乗りの仕事始めの4日
所用で宇都宮にいく。
ショック交換後初めての長距離である。
今日も雲一つない快晴である。





用事2019初乗り42019初乗り3があったのは市役所。
1時間程度の滞在である。申請書類を受け取れば用事は終わりだが、せっかく来たので周囲を散策する。






別の2019初乗り52019初乗り6用で県庁まで足を延ばし、最上階の展望ラウンジまで上がる。
日光の山並みがきれいだ。遠方には那須の山々も望める。





2019初乗り72019初乗り8都宮といったら餃子である。
県庁の近くの『香蘭』という餃子店に行ってみた。
お昼を回っていたにも拘らず、かなりの待ち客がいたが回転は速い。
二人で焼餃子・揚餃子・水餃子各1人前とご飯2杯を注文。950円也。個人的にはやはり焼餃子がいちばん旨かった。


県庁宇都宮城趾2宇都宮城趾1南別館の売店で土産を買って、パーキングの前の宇都宮城趾を見学する。
かつての北関東の雄、『毛野氏』の末裔ともいわれている名門宇都宮氏の居城。そして江戸時代になってからはかの有名な『宇都宮吊天井事件』で失脚した家康の懐刀、堀田正純の城主時代に将軍陣屋として整備された城郭は、現在晴明台・富士見櫓など本丸の1/3ほどが復元されている。


帰路は4号ひた走りの下道で帰る予定だったが、用事以外にちょっとゆっくりしてしまったことと、高速の渋滞がほとんどないようなので東北道経由に帰路をとることにした。

本日走行 272km 
270km走ってメーターが半分は大健闘。街乗りでは180km程で半分を割りこんでしまう。
ショック交換とアライメント調整の効果か高速ドライブは快適だったが、久々距離を走ったのでちょいとつかれた。自動運転ほしい‥‥

今上陛下のご退位が定まっている2019年は平成最後の一般参賀となる。
2019一般参賀1年はハンパない混み方が予想されるため、持病で利尿剤を服用しているオヤジとしてはトイレの心配がのしかかる。
が、やはり今上陛下最後の賀詞お言葉であり、来年以降は一般参賀にもお出ましなされないか、なられても、天皇家・皇嗣家の前に出ることはけしてなされないだろうから、やはり今回のお言葉には重たいものがある。





2019一般参賀2重橋前駅についたのは昨年とほぼ同時刻。但し昨年と初めから違うのは、メトロ二重橋前で降りる乗客の数。駅のトイレはすでに長蛇の列。でも皇居のトイレはもっとひどいだろう。ここでトイレに入っておく。
前回は内堀通りの手前で食い止められていた列は、何の障害もなくボディチェックのゲート付近まで流れてきた。開門時間を繰り上げているようだ。





2019一般参賀3年同様素晴らしい快晴。昨年と同じ時間・ルートだが並んだ列は昨年より6列くらい後。これが3方向から来る。しかもこちらは側面の小数列なので、進む順からすると昨年より20数列以上後ろになる。これだけでも前回より1万数千人後ろになってしまう。周囲の人に「ちょっとトイレで抜けますね」などといっている暇もない。






時間2019一般参賀52019一般参賀4はすでに10時半を回っている。二重橋から見下ろすと広場を埋め尽くした群衆。ハンパない。
2万人収容できるという長和殿前の広場。入れたのは2回目のお出まし時間の少し前。しかもほとんど後方。小柄なオヤジでは何も見えない。でもその周りにいるさらに小柄な昭和のおばさんたちはなお可哀想。大阪から来たというおばはんもいるが、これは気の毒である。
陛下のお言葉が広場に響くが、陛下や皇后さま・皇族方のお顔も拝謁できないまま
「天皇陛下ヽ(^o^)丿だけで終わってしまった。

2019一般参賀6前中のお出ましは3回。外には入城できないでいる人が数え切れないほどいるはずである。遠方から来てはいれないのは気の毒ではあるが、入れても何も見えない状態で入れ替えになるのもひどい。
右に流れる人波をうまくかわし中央寄りに前進。昨年よりはかなり後方だがお顔が拝謁できる位置まで来たところで総武線通勤状態?で固定化してしまった。





3回目2019一般参賀92019一般参賀7のお出ましは天皇皇后両陛下、皇太子家、秋篠宮家の成人皇族の方々となる。
今回は手を振られる天皇皇后両陛下のお姿が見えた。
昨年は『来年はもう少し写真写りが反射しないロケーションにしよう。』などといっていたが、とんでもない話である。お姿が見えるだけでありがたい状態であった。



2019一般参賀10最終的には15万5千人が参賀に訪れたと報道される。昨年より3万人多いが、実感はそれ以上だ。オヤジが参賀に来るようになったときはすでに5回となっていたが平成の前半は7回だった。今回もお出ましは7回となったが、最後の1回は陛下が望まれて実現したものだ。やはりお人柄を感じずにはいられない。






2019一般参賀11太子さまは大変である。民間企業ならもう定年が見えて、悠々自適となる年齢から仕事が始まることになる。経営トップと考えれば不自然な年齢ではないが、同年代としては父親の存在が大きすぎると苦労だなぁとか不敬罪的同情を禁じ得なかったりする。
愛子内親王さまうちの娘と同学年である。とりあえず進学の心配はないのだろう。
新天皇の御誕生日の一般参賀は来年の2月であるから、新年の一般参賀が先となる。これもまた楽しみである。


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平成31年元日
徳大寺2徳大寺1成最後の年開けも、地元神社の初詣から恒例のショッピングモールの福袋奪取戦の加勢で始まる。
福袋のピストン輸送が終わると1日はなにもすることがないので、昼前から初乗りに行く。
今年は亥年なので、猪に所縁のある寺社を探してみると近くにあったのでそこからスタートする。
御徒町のアメ横の中にある『徳大寺』。本尊は摩利支尊天さま。猪を従えていることから、亥年の守護神となっているようだ。


亥年徳大寺4徳大寺3の元日、しかもアメ横なのでかなり混んでいるかと思ったら結構スムーズに本堂まで行けた。
本堂では祈祷が行われており、祈祷を待つ信徒の列ができていたが、ご本尊は垂れ幕に隠れている。開帳時間は決まっているようだ。
ほかに干支にちなんだものはないかと思ったら、ありましたよイノシシの像。



千手院3千手院1支詣りを済ませたので、自分の守り本尊である千手観音にお詣りに行くことにする。
2016年にも守り本尊詣りをしたが、御徒町から近い鶯谷にも千手観音を祀る寺院があるのでそこに向かう。
『補陀落山 千手院』。名前のとおりである。『補陀落』とは観音菩薩が降臨する海の彼方の島のことである。つまり沖縄でいうと『ニライカナイ』みたいなものですね、というと「全然違います」といわれてしまいそうだが。


千手院2本尊『千手千眼観世音菩薩』さまは本堂の中だが、一般の拝観はお彼岸の期間のみで、今はできないようである。
まずはお詣り。
「おん ばさら たらま きりく」。
山門から本堂に向かう途中に『五智堂』というお堂がある。ここは扉の網越しに中が見える。
中には何やら如来さまがおわす。
ご本尊は観世音菩薩であるが、如来は菩薩より階級(といってよいものか?)が上である。
これもつまり『座天使』と『主天使』のようなものですね、というと「全然違います」といわれそうである。

ホビーセンターKATOショウルーム間は十分にある。少し足を延ばして以前から立ち寄りたかったところを最終ミッションにするが、その途中に恩師の墓に立ち寄り、ご本尊の千手観音をじかに拝観できる光徳院も立ち寄る。
途中に突然現れたレトロな電車。ホビーセンターカトーの本社ショウルーム。『KATO』といえば鉄道模型である。しかし我が家にある4畳半目一杯の16番ゲージにはKATOってあったかなぁ。集めていたのは昭和50年前後。当時はカツミなんかが主流だったような。押入の奥で動かず朽ち果てているが、保存がよければ高級自転車が買えるくらいの値は付いただろうに。残念。



光徳院4光徳院5トー本社から600mほどで、2年ほど前に訪れた『真言宗豊山派 七星山光徳院』につく。
ここのご本尊も千手観世音菩薩さまである。






山門光徳院3光徳院2の左手にその筋では有名な五重塔。右手に千手観音像を祀る観音堂がある。ご本尊はかの菅原道真公が自ら刻んだとされているが、実際は南北朝時代頃のものらしい。
かつては秘仏だったが、今の観音堂になってからガラス窓越しに配管できるようになったそうだ。
「おん ばさら たらま きりく」。
千手観音は結構メジャーな観音さまのようで、ご本尊としている寺院は都内では結構少ない。


さて江古田原・沼袋合戦場1江古田原・沼袋合戦場2、元日ラン最後のミッションに向かう。
光徳院から北西約1km。新青梅街道沿いの小さな公園、『江古田公園』。
神田川の支流である妙正寺川を挟んで南武蔵の雄『豊島泰経』と急速に勃興してきた太田道灌資長』との一大決戦が行われた場所とされるのがここである。
北区の平塚城主『豊島泰明』を攻めていた道灌と江戸城攻略のため出撃した泰経がこの地で激突し、平塚城より泰明が挟撃した豊島氏が優勢だったが、道灌の策略で敗退と見せて油断した豊島氏を道灌の友軍が挟撃したことで、一挙に形勢逆転し豊島氏を衰退に追い込んだとされている戦である。

23区江古田原・沼袋合戦場3江古田原・沼袋合戦場4の名前の由来ともなった名門豊島氏。じつは隠れファンであるおやじも平塚城址は何度か訪れた。
しかし近年の研究においては泰明が籠城し、道灌が攻めたのは『平塚城』ではなく『練馬城』であるとの説が唱えられて定説化しつつある。戦も策略戦というより総力戦の様相を呈し、足軽戦術の祖道灌率いる百戦錬磨の太田軍に、兵数では勝る豊島軍も支えきれず総崩になったのが真相のようだ。


ちんちん電車が走る風景2士急ハイランドのように『としまえん』も入園料無料になれば練馬城趾(ほとんどないらしいが)も気軽に見に行けるのだが‥‥
帰路は新目白通りをそのまま九段下まで進む。明治通りから早稲田までは都電との並走である。
これもレトロっぽい電車だが、こちらは最新式である。


本日の走行40km
2019年初乗り料金、お賽銭100円、ドトールの食事930円、締めて1030円
初乗り料金としてはちょいと高かったか‥‥

謹賀新年
本年もよい年であることをお祈り申し上げます。

先日、BMCアルペン3
BMC・AC−02が新しいオーナーのもとに引き取られて行った。
2012年新春に購入。TT565mmと162cmのオヤジには大きいすぎるフレームから、試行錯誤を繰り返して最もパーツチェンジの激かったバイクであった。
軽く小柄で車載も楽なため6ホイールライフの主役になり、取り回しの良さから、日帰り最長距離160kmを走破する、あわないサイズとは裏腹に我が家で最も乗りやすいバイクであった。



娘のBMCアルペン4もとに嫁いでいたトランジットセブンが、娘の新車購入で離縁されて戻ってきたが、我が家のシェッドに収容できるのは2台まで。車のカーゴスペースと書斎で4台をローテーションしていたが、車のカーゴスペースが使えなくなり、今年6月に人生後半の自転車ライフの原点ともいえるトランジットセブンを手放した。

腰を悪くしてからは長距離サイクリングを控えるようになり、3台の自転車を交互にリリースして乗るほどの回数もなくなった。SAGAをグラベルロード化してからは、AC−02は通勤と買物専用になっていたが、書斎にも自転車を置けなくなり、マンションの駐輪場では風雨にさらされ、乗らずして痛んでいってしまうため、断腸の思いでAC−02も手放す苦渋の選択となった。

現在AC−02ではほとんど乗る機会がなくなったMR−4だが、入院生活の時にMR−4の購入を決めたときからの夢、「元気になれたら、このバイクでしまなみ海道を走りたい」という夢のために手放さないでいる。
普段の脚と、6ホイールライフの主役をSAGAが受け持つことになる。






ローBMCアルペン1ドバイクに興味のないオヤジでさえ、『BMC』というロゴには強い衝動と心躍る高揚感がある。
万感の思いを込めて『ありがとう』





10月末に7回目の車検をとる。
このリフレッシュ数年、走行距離がめっきり減って、やっとオーバー10万km車検となる。 年式相応なのか、ロングドライブがなくなり、ほとんど買い物とちょい乗りだけになったためか、このところ定期的に何某かのトラブルに見舞われている。始終ドック入りしている愛車を見ると、通院三昧のオヤジ同様「年取ったなー」という感慨も出てくる。

年をとると医療費が嵩むものである。


修理代がかかっても手放せない車ではあったが、家族も減って、そろそろオヤジ自身の『衝突防止安全機能』がいかれてきたので、数年後の定年に合わせて小さい『サポカー』に買い替えようと思っている。

今回、長くとも次回の車検が最終である。とはいえ乗っている以上はオーナーとして妥協できない点もある。もやもや乗り続けるのも嫌なのでライトと足回りをケアすることにした。

足腰と目は老化のバロメーターである。

 

   HIDバルブ交換

カットラインがでたカットラインなしッドライトの焦点がおかしく、車検前点検に出したところ、左右レンズともカットが全くない状態で、このままでは車検通せないという事態になる。重度の白内障である。10年以上の55Wの強烈な熱と紫外線によるダメージらしく、急遽純正左右ライトASSYの交換となった。オークションにて購入し、取付けと作動確認をしてもらい回復。そのまま車検整備をとおす。

交換前と交換後。55Wはまだ純正に比べて明るいが、ラインは消滅し焦点がぼやけてしまっている。

 車検スキルカバー1アイマスクなし後、55WHIDのバルブ点検と再セットを、埼玉県の販売元ショップに依頼したところ、バルブ側にも問題が発覚。

劣化がひどく照度光量がかなり落ちているため、55Wの再インストールならバルブ交換を勧められる。今着いているノーマルのまま乗る選択もあるが、乗るたびほかの車と比べて暗いとぼやくのも嫌なのでバルブ交換を依頼。



『L55WOUD』はもともと安いブランドではなかったが、近年ネット通販で純正交換型パワーアップキットが安価で浸透しているため、通販45Wキット取付と変わらない費用となった。

ヘッドライトを交換し、久々にライトカバーをとった状態。レンズが少し曇って見えるが、今まで着けていた焼けたレンズと比べると新品並みのクリアさである。しばらく純正スタイルのまま乗ろうかとも思ったが、やはり我が家の車の唯一の外装アクセントがライトカバーであるため、元のヘッドライトから取り外して付け直す。

復活した55Wの明るさがこれ。メーカーである88ハウスは四駆専門メーカーなので、四駆使用も考えているのだろう。四駆乗りにとって“光”はファッションではなく生命線である。

 

   ショックアブソーバー交換

すでリアフロントに10万kmを越えており、足回りのへたりがどうしても気になっていた。かなり抜けてしまっているのか、高速のコーナーや山間の道では恐怖を感じるような状況なので、せめて残された期間はフニャフニャ感に苛まれることなく走りたく、ショックの交換をすることにした。ショック交換はGチェロキーのコンプレッサー付きランチョ以来だ、

すでに生産中止から久しいPNU31の対応ショックさほど多くはない。車高調やローダウンキットを除くと費用的には、スタンダードな『カヤバニューSR』に絞られる。
ただショック交換といっても調整整備費用を含むと価格はピンキリ。行付け店舗で持込取付も検討したが、結局自転車で何度か前を通ったことのある江戸川区のチューンショップに飛込みで商談。
アラマウントアライメント測定イメント調整も含めてかなりいい条件だったので店頭注文での取付を依頼。
正直アライメント調整ってよくわからないので、車検のトー角調整だけもでいいと思っていたが、アライメント調整を含めたパッケージ価格自体がリーズナブルなのでお願いした。
作業終了時に、取付の状態・純正パーツの状況・アライメント調整結果などを丁寧に説明していただいた。
マウントやブッシュなど純正回りは変更しなかったが、やはり劣化は進んでいるとのこと。すぐにダメになる状態でもないらしいが、当初の予算より浮いた分やっておいてもよかったかと少し後悔。

ニューSRリアいんすとーる持していたカードが使えなかったため、現金前払オーダーとなったが、トータルではネット通販の持ち込み取付よりも割安で交換できて重畳、重畳!。
帰りは少し遠回りして、乗車感覚の確認。
乗った瞬間車高が上がったような感覚で気分がいい。
スタッドレス(ブリザック)のせいもあるだろうが、汎用用途のショックのためか、ごつごつ感は全くない。抜けきったショックが新品になったというくらいの乗り心地だが、ハンドリング・ブレーキ含めて、操作性は格段にクイックで軽くなった。
期待しただけの効果はあった。トランパスでの高速走行や峠道が楽しみである。


13復活年目に突入した愛車。しばらく不調続きや、ガソリン代の高騰で悶々としていたが、リフレッシュしてまた少し昔に戻った気分。

今年
我が愛車もオヤジと同じく循環器系の大病を患ったため、思いっきり回すのはちょいと怖いところだが、残り少ない期間の間、また大きなトラブルでのドック入りのないことを祈るばかりである。
フットワークと光を取り戻したことで、封印を解かれたVQ35がまた長距離クルージングにいざなってくれそうである。

 


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サイクルモード々日より腰椎変性すべり症の症状が強く出て、足を引きずるようになったため、久々の自転車往復を断念。初めて車での来場となった今年のサイクルモード。
出展者未定の時点では、フリーパワーの襲撃を期待していたのだが、それもないので今回は自分自身の探求テーマもない。





使用サイクルモード2ブースが変わった。今まではメインホールの1〜4ホールだったが、今回は北ホール9〜11ホール貸切になった。県営の新都心第一地下駐車場を出て目の前なので、駐車場のアクセスはとても良い。
大手がどんどん手を引き、毎年出展規模が縮小傾向にあるように思えるサイクルモード。まとまった北ホールがいいのかもしれない。





チームキープレフト?ジャイアント・スペシャライズド・トレーク・スコットなどの大手が出展しない中、今回唯一楽しみにしていたのが『KONA』。試乗車案内はなかったが、『ROVE LTD』や『ROVE NRB DL』などはぜひ現物が見たかった。
何故か『KONA』の展示ブース番号を検索すると『チームキープレフト』になっている。なんでかなーと思いつつまず行ってみる。
自転車の展示なんてしてないじゃん。インフォメーションのおねー様方に尋ねた。何とKONAは出展取りやめになったとのこと。
だったら予約開始前に出展ブランドリスト消しとけよ!。当日、開場で見た時は確かにあったが、帰宅してリスト見たら消えていた。他からもクレームあったのかな。遅い!

SRAMが痛い上に、お目当てがない。しかも今回は自分の確認ミスではない。もうテンションがた落ち。
だけどわざわざ、車だして来たんだから一通りは見ていこう。
インターマックス『SRAM』のコーナー
1×11コンポ『ライバル1』は今、最も気になるコンポである。DXドライバーという特殊なフリーハブに換えることで10−42SというMTB並のワイドレシオが可能になる。
カプレオの2番煎みたいだが、残念ながらシマノのフリーハブは互換性がないとのこと。



BBベースーカーブースが縮小傾向にある中で、目立つのは自治体や振興会関連ブース。
JRのBBベースも頑張っている。
オヤジのような気まぐれポタリストは『予約制』と聞くとどうしても尻込みしてしまう。
但し、前日予約まで可能になったということで、空きさえあれば天気がある程度はっきりした時点で、計画を立てられるのはうれしい。総武快速のグリーン車は輪行には適さない。




変わローディーさん向けり種は、ジョイントコーポレーションが手掛けるロードバイカー専用賃貸マンション『ルブリカント(特に深い意味はない潤滑剤?)』。室内保管はもちろん建物内に共同のローラー台が設置されてたりするみたいだ。建てているのは行付けの南砂トピレックプラザの近辺らしい。
自転車を室内保管できるのは、自転車乗りには喜ばしい。我が家も室内保管だが、ちょっとチェアをリクライニングしただけでバイクと接触し、バイクがスタンドから落ちてしまうほど近しい関係では困る。




お昼ケバブサンドスマイルケバブになって小腹がすいたので、フードコートに行く。
予期せぬ高揚!、ケバブが出展じゃない出店していた。スマイルケバブはマリンスタジアムにも出店している移動運営店舗らしい。
久々のケバブうまい!





『旅』BESV JR1シマノ電チャリとともに縄張りを拡大しているのは『E−バイク』。スポーツ系がどんどん出てきている。シマノまで手を出して来た。これだけメーカーが力入れているのに、街では電ママチャリしか見ないよねー。YPJシリーズは売れているらしいが巷では見たことない。
実はみんなこっそり『VIVAX』やってんのかなぁ‥‥




YPJ-ER年発売になったYPJ-ER。20kgとテッチンママチャリ並の重さだが、これなら長距離も困らないし、何よりグラベルに改造できる!!。
やはり難とはいえば、この不格好なバッテリーとクランク回りは何とかならんものか。
価格も35万と高価。『ROVE LTD』が買えてしまう。
試乗を申し込んだら次回まで1時間待ちとのことで断念。




東京サンエス分自身の自転車生活がマンネリ化してしまっているせいで、何かサイクルモード自体がマンネリ化してしまっているように錯覚してしまう。自転車やそれを取り巻く環境は今でも刻々と変わっている。
必ず立ち寄る『東京サンエス』ブース。くるたび小さくなっていくように思えたが、聞くと昨年より広くとっているとのこと、痛いところに手が届くパーツばかりだが、たくさんありすぎてわけわかんなくなった。





ドネルケバブ回転輪宝後にフルクラムの回転輪宝で自己の自転車人生と自転車業界の繁盛を心願する。
同じく回転するドネルケバブ。サイクルモードにケバブ食べにくるわけではないが、今回のピカイチはフードコーナーの『ケバブ屋』であった‥‥

今回はケバブ食った満足感だけを引いて早々に帰宅の途につく。
E−バイクばかりじゃなくて、来年はフリーパワーにガツンとやっていただきたいものだ。



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10月とは思えない真夏の暑さ。
若洲大橋より舞浜前中から午後にかけて通院の梯子。循環器・整形・眼科とこれから一生付き合っていく悪友が増えたから。そのわりにチャリとの付き合いが少なくなり、脂肪という悪の組織に付け入るスキを与えてしまっている。
有酸素運動を奨励されているし、自転車はすべり症にはいい運動(ママチャリの買い物程度のことを言うのだろうが)とのことなのでぶらっとポタする。
ナイトランでレインボーブリッジを回ってきたので、今度は久々『恐竜橋』周辺を回る。

恐竜橋1恐竜橋』、正式には『東京ゲートブリッジ』である。
江東区若洲と、都内最後の国境係争地である『中央防波堤埋立地』を結ぶ。
桁下最大高は55m。レインボーブリッジよりも気持ち高い。






恐竜橋2の橋の着工以降、世界の豪華クルーザーは、もはや船とは言い難く醜態的に肥大化したため、この橋はくぐれない。
否さ、100年以上前に建造された、船が船としての美しさを留めていた時代のオリンピッククラスでさえ、マストの天辺まで喫水線上63mあったというから、やはりくぐれない。
マストのなくなった20世紀の船は大方通れるようだが、この橋げたの高さは何を基準に設定したのだろう。




吊橋でない訳下はレインボーブリッジより高いが、全高はレインボーブリッジよりかなり低い。
トラス橋だからではあるが、このユニークなトラス橋となった理由がこれである。
航空機の羽田への進入路内にあるゲートブリッジは、レインボーブリッジより厳しい高さ制限が設けられているのだ。時間帯によっては滑走路1本辺りが山手線並の過密ダイヤになる羽田空港。
粘っていればもっと巨大な機体が橋のすぐ上を通過することもある。




ゲートブリッジから眺める東京東京タワー何処だ
ここも以前来た時よりのっぽが増えている。
昭和中期、東京に出現した50〜60mの怪獣たちは、足元の建物を蹴飛ばしながら。ポツンと1本だけ突っ立った東京タワーを目指せばよかった。
しかし現在は、自分たちの3倍近い高さの壁群に阻まれている。
テレビ送信料収入がなくなり、再建するのも今はお金なさそうだから。壊すなら臨海地区のタワーマンションくらいにしといてくれ。


スカイツリーはすぐわかるレインボーブリッジ何処だインボーブリッジも見つけるのが結構大変。
スカイツリーはその高さと高層ビルがないため、ほぼ全景が見える。東京にもいつかは『ブルジュ・ハリファ』みたいのが乱立する日が来るのだろうか。
その前に、それほど遠くない未来にこの景色が黒煙と炎に包まれる洗礼を東京はうけなければならない。その時オヤジは生きているか、家族は‥‥。
中国や韓国のスカイツリー並みの超高層ビルは、マグニチュード8の直下地震に耐えられるのだろうか。凌雲閣の轍を踏まないように願いたいものだ。

荒川河口橋を渡るために、夢の島に戻る。
江東清掃工場コンスタンティヌスの柱(オヤジ的に清掃工場の煙突を指していう)が聳える江東清掃工場。幾たびかのゴミ戦争を勝ち抜いてきた江東区の象徴。そのうちあの上に山崎さんの銅像が立つかも??。だが今はゴミ戦争終結後の領土問題が紛争状態に突入している。
羽田の拡張で帝都最大の区になったのにも関わらず、解決済みの古証文を持ちだし、調停に一切応じない大田区。区民の多大な犠牲の上に血で領土拡張をしてきた江東区も、譲歩などしたら区民革命でも起きそうな状態。すでに埋立のごみ処理手続き等、実効支配を強調する江東区。
オヤジは勿論江東区民ではあるが、同じ都民族なのであるから紛争は避けて早期解決してもらうことを望む。
江東区は江東区ですでに区内に風俗習慣の違いよる分裂が生じている。下手をすると練馬区以来の新区独立という爆弾もありうる。湾岸地域は東京のバルカン半島なのである。

荒川河口橋荒川河口橋より川河口橋を渡る。おそらく自転車に乗ったまま渡れる橋としては23区内の最高の桁高であろう荒川河口橋からの眺めもなかなかのものである。
近年大型の台風やゲリラ豪雨災害で、注目されているのが荒川の決壊だ。地震・水害と高リスクを抱えた江東区に住んでいるのもちょっと恐ろしいものである。




荒川土手西臨海公園を回り荒河左岸を北上。強い追い風に押されて電動アシストに乗っている感覚である。
8年前の大病後に初めて30km/h巡行した道である。あの時も追い風であっただろうが、泣きながら走っていたことを思いだす。健康が一番である。
病気前から8Kg痩せてスリムだった自分。今また8Kgを奪還してしまいぽっちゃりおなかになってしまった。
ドックが近い。メタボ確定か‥‥




荒川小名木川右岸CRを始点に戻り、小松川公園まで北上。短い区間だが強い南風でまさに天国である。
番所橋から小名木川を望む。
行徳の塩や、江戸川を下ってくる各地の物資を、海を経由せずに江戸に運ぶために開削された運河である。
番種あとから始まり、アリオ北砂・クローバー橋・扇橋ロックゲート・新小名木川水門・萬年橋ライトアップなど見どころも多い。
護岸の遊歩道は狭く、自転車が通れないことが唯一残念である。

しかし今日はめちゃ暑かった!!。わずかなポタなのに、帰宅したら❝焼けた❞といわれた。









勝どき橋豊洲の夜長にはちょっとむしむしする夜。
ぶらっとナイトランに出かける。
豊洲・晴海ルートからそれて相生橋から勝どき向かう。






えぇ〜!気に入りのスポット。築地場外市場は当面残ることが決まっているからこの景色がすぐになくなることはないだろう。
でも何か変だ。
『えぇ〜っ!!』
東京タワーが隠れてしまっている!!
なんだあのビルは!
今まで汐留の高層ビルの隙間からくっきり見えていた東京タワーがすっぽり隠れてしまった。
ほんの数年で風景が変わってしまう程、東京はめまぐるしく変わっているのか。
密かにお気に入り癸韻世辰辛景がなくなったのは非常に残念。

マリカー族図で直線をたどっていけばすぐわかる。山の手線沿いのイタリア公園に出るガードのところだ。
そうか、山手線内回りの新橋手前のビル工事現場だ。電車で見ていたのにうかつであった。
といってもどうにもなるわけではないので、新橋をスルーして東京タワーに行く。
最近頻繁に見かける『マリカーツアー』。外国人観光客には結構人気のようだが、著作権問題や道交法的問題も抱えている。
これで海外の観光客に楽しい思い出になってくれれば結構だが、実際クルマに乗って出くわすと邪魔である。



TOKYOタワー2TOKYOタワーつ来ても東京タワーのライトアップは暖かい。
今は塗装工事の足場が組まれているが、ライトアップされた足場がまた独特のコントラストを醸しだしている。







さて高輪橋架道橋もう一か所、近々消えてしまうスポットに足を延ばす。
『高輪橋架道橋』。裏の名を『提灯殺し』『お化けトンネル』。
山手線・京浜東北線・東海道本線・新幹線をくぐる高さ制限1.5mの長いガードである。
山手線新駅の建設による再開発で姿を消す、今や観光スポットになっているガードである。





高輪橋架道橋3高輪橋架道橋2輪口から入る。
あれ、意外と高いぞ。1.62mのオヤジでも天井に余裕がある。
ガードはかなり長く出口が見えない。内部の照明は明るくお化けが出るイメージではない。
しかし、芝浦口に向かっていくにつれ徐々に天井が低くなってくる。「吊天井」か?
芝浦口出口付近はタクシーの社名灯がぎりぎり。『提灯殺し』とはこのことか。
‥‥でもタクシーのあれは『行燈』じゃなかったっけ‥‥
メー高輪橋架道橋4ターで見ると220mあるガードの芝浦口。一通だからこちらが出口となる。
すでに新駅の開発は始まっており、ここもいつ閉鎖になるかわからない。一度は訪れたかった消えゆく東京名所である。







お台場レインボーブリッジ輪橋架道橋から新幹線引込線ガード・東京モノレールを越えるとレインボーブリッジのループ部に突き当たる。
築地を抜けて豊洲に出るつもりだったが、まだレインボープロムナードが夏時間で通れるのでまたまた歩くことにした。
夜景は何といってもノースルートなのだが、折り返すのはたるいので次回にしよう。10月いっぱいは21時まで開門している。



豊洲ぐるり公園豊洲ぐるり公園場から豊洲へ向かう。今回は『豊洲ぐるり公園』の豊洲運河側をポタる。








ららぽ選手村岸には東京2020オリンピックの選手村が建造中だ。
このままいくとララポの敷地に入ってしまうので、途中から一般道に戻る。







豊洲学習農園から東陽町を経由し横十間川親水公園を北上する。
公園の途中に学習農園がある。
子供たちが作った案山子であるが、夜見るとなかなか不気味(ごめんなさい)である。






小名木川クローバー橋十間川と小名木川が交差するところに『小名木川クローバー橋』がある。
スカイツリーの撮影ポイントにもなっており、ドラマロケやCMなどにも使われている。
小名木川には『塩の道』という遊歩道が整備されている。ここを通れれば非常に便利だが残念ながら『塩の道』は自転車通行禁止である。
横十間川も遊歩道を再整備中であるが、自転車禁止という愚行はなしにしていただきたい。
整備費をけちっているのが最大の原因だが、行政にそういう口実を与えるのはほかでもない、『躾なしの馬鹿チャリ』どもであるから悲しい。









サイクルモード2018の出展ブランドが公開された。
前売券購入は出展ブランドを見てからと思っていたが、大方はレギュラーメンバーのようだ。
我がBMCとドッペルギャンガーの名前が見当たらなかった。リクセンカウルの名前もない。PRインターナショナル自体の名前がなかった。
皆見落としならいいんだけど。

さて、期待したサイクルオリンピックは名前が載っていない。出るなら先に自社のニュースリリースに載せるよね。
リリースニュースの最新は初のコンセプトショップ『フリーパワーショップ国分寺』になっている。
連休も暇なのでポタを兼ねていってみた。

スーパーマーケット『オリンピック』本部ビルの一階にセッティングされた、なかなかお洒落なお店だ。
展示はクロス・ミニ・ロード系のモデルもある。
ライトウエイブランドに装着したモデルが多い。ライトウエイのインフォメーションにも載っている。本気でコラボするのかな。
ライトウエイもサイクルモードブランド一覧に名前はなかった。これも残念。

ライトウエイ系の試乗車がないか尋ねたが、試乗はやはりママチャリ系ばかりであった。
店舗の隅にローラー台にセットされたクロスバイクとロードバイクがあったので漕がせてもらった。
リアはターニーTXだった。
ローラー台なので実走感とも違うが思い切り回せるし、ラフなチェンジもできる。
漕ぎだしの当たりのなさは今までの試乗車と共通だが、グミをつぶすような感覚はなかった。チェンジ時にトラクションが利いていない感覚は、重たるいけど滑らかという我が家のCVT的加速感だ。

スポーツ系に装着されているコンポは、ターニーかクラリスだ。ギアは8速どまり。コストの件もあるのだろうが、ズバリ適応段数を聞いてみる。BBはスクエア122mm。フロントギアは8速対応だそうだ。10速・11速等ではチェーン幅が対応できないとのこと。今日はAC−02で来ていたので、ズバリ取付出来るかを聞いたが、見るなり『できない』とのことだった。
しかし、多段ギアに対応するプロトタイプはあるとのことなので、後日を期待しよう。

五日市街道を経由して国分寺駅、帰りは新青梅街道を経由して全走行75km。
山の手から武蔵野台地は起伏の連続とやたら信号のGO・STOPの連続で結構脚に来る。
腰を痛めてからは尚更である。最近は二トロではなく、鎮痛剤が常備薬になっているこの条件下で、フリーパワーにしたら、脚への負担は多少は減るものだろうか。
お尻の痛みは2700円の『サギサカ超ソフトスポーツサドル』でほぼ解消した。今まで試したどのハイエンドコンフォートサドルよりも良い。スーパーの自転車パーツコーナーを馬鹿にしてはいけないと思う。

Eバイクにあの不格好なバッテリーと『取り外して充電』という行為がなくならない限り、FREE POWERは興味あるアイテムであることは間違いない。




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