KARANOがれーじ

KARANO 枯野 1.古事記に登場する仁徳天皇所有のハイスピードクルーザー。毎日灘波と淡路を往復し清水を宮に運んだ。 2.我が愛車のニックネーム。毎週我が家とスーパーを往復しPBの飲料水を運んでいる。 3.枯野さん(ハンドルネーム)。 鍵穴型古墳マニア。持病持ちポタサイクリスト。

遠見塚古墳

急に仙台の営業所に出張を命じられる。と言っても日程は日帰り。遠見塚古墳
仙台の所長との雑談で、“実はすぐ近くにも大きな古墳があるんですよ”と知らされる。
“それは知らなかった”ということで食事の合間に案内してもらうことになったのが“遠見塚”という古墳。
所長は古代史や遺跡にはあまり興味はないようだが、以前、前任者のときに雷神山に行った話をしたことがあるので古墳オタクのために気を利かせてくれたようだ。
確かに名前は聞いたことがあるが、さして気には留めていなかったその遠見塚古墳は仕事先から車で5分くらいのところにあった。バイパスに面して前方部が道路で削られていたが、綺麗に復元されており、見せてもらった写真のイメージよりはかなり大きく感じた。
“これは比較的初遠見塚全景期の形だね”と受売りの説明をする。所長が案内で墳丘に登ろうとするので、拝礼したところ、所長もあわてて手を合わせた。“一応貴人のお墓ですからね”。“‥‥でも子供がよく滑り台やマウンテンバイクで遊んでますよ”。“‥‥‥‥”

遠見塚古墳。全長110m、後円部は高さ6.5mとある。前方部は平らで低い。4世紀末から5世紀初頭の築造とのことで、雷神山とほぼ同時期のようだ。宮城県下では第2位の大きさで多数の出土品のほかに、かなり広域な周壕が復元されて公園となっている。平日の小雨の中なので訪れている人も少ない。以前は周囲遠見塚前方部が畑で、戦後に軍用空港の建設でかなりの盛土が掘削されてしまったが、昭和43年に発掘調査とともに国の史跡に指定され墳丘が復元されて公園整備が進められたとある。
復元当初は白石が引き詰められていた写真の周壕部は枯れ草となっていた。春には野原のようになるのだろう。

雷神山にしろ、この遠見塚にしろ4世紀から5世紀の首長墓であろうが、名取柵が設けられ東国の移民が進められるのが7世紀初頭としても、それ以前は蝦夷の人々の土地だったろう。前方後円墳がヤマトとの同盟の証のように言われているが、これは蝦夷の首長の墳墓なのか、それともその頃頻りに遠征をしていた毛野を中心とする坂遠見塚後円部東の首長達が征討の証として築いたものなのか。
この後38年戦争で戦乱の中心が多賀城以北から盛岡に移っていくのは300年も後のことになる。ここに眠る被葬者はどのような人物なのか。今回の出張の思わぬ副産物に興味が湧いて来る。

“古墳の上に登るとなんとなく古代の人と空間を共有しているような気になりますねぇ”と所長がつぶやく。まぁ、確かにそんな気になることが古墳に行って墳丘に登る楽しみではある。
仕事で来ているので長居は出来ないが、束の間のよいひとときをくれた同僚に感謝!
近世には興味があるようなので東京に来た際遠見塚古墳案内碑はぜひ徳川所縁の場所でも案内したい。

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確定申告の日

休暇をとり亀戸に行く。
用事は私用そこそこと納税者のささやかなイベント(なわけない!)“確定申告”。
自営業や年金取得者の方々には深刻な申告だが、自分は小遣い収入なのでタカが知れている。
今回は2度計算したが答えはマイナス。還付があるなんてありえないのだが、ささやかな希望を持って税務署へ。係員が暫しながめて“これは間違っています”。ん〜、やはり記載ミスがあったか。
思わず“残念だー”に対して“申し訳ないですねぇ”と係員。‥‥いいんです。少しでもお国にご奉仕できるんだから‥‥なんて心にも思うもんか!
これで新しい靴でも買えたのにと思うと余計癪である。
朝はかなり雪が舞っていたが、午後には晴れ間が見えて小春日和のようになってきた。ただ帰るのももったいないので少し歩く。
天満宮2 天満宮1







税務署から徒歩5〜6分で亀戸天神梅につく。なんとなく“さだまさし”の歌(もちろん飛梅です)を口ずさみながら境内をぶらつく。まだ梅の見ごろには早いようだがぼちぼち咲いていた。以前は天神様のすぐ近所に住んでいたのでよくきていたが、今は年に1〜2回になってしまった。今年になって生活上でのト天祖神社ラブルが多く、今日もその処理で歩き回って疲れたので、厄難消除のため参拝していく。ここの境内からもスカイツリーが見える。
天神様から裏路地を少し歩いたところに天祖神社と言う社がある。裏路地の静かなところにあり、こじんまりしているが、以前はここの氏子だった。天満宮のすぐ傍に住みながら氏神様が天祖神というのも変だったが、このあたりの氏子は複雑に絡んでいるらしい。天満宮自体も少し離れた場所から移転してきたようでそれ以前からの縄張りが生きているようだ。ほとんど足が遠のいてしまっ亀戸からていた裏通りので、お詫びかたがた参拝する。
天祖神社の裏が浅草通りを挟んで北十間川になる。ここまでくるとスカイツリーまで歩いても10分程度だ。柳島の歩道橋から雄大なツリーの全貌が良く見える。300mも超えたし、またちょっと足を向けてみる。

浅草通りからちょっと裏通りに入ると本当に違和感のあるコントラストに出会える。これは一昔前の月島商店街からみる佃島の高層マンション並みのインパクトだ。イラスト 北十間川を渡り押上3丁目へ。道路に面白いイラストがある。錯覚を利用したもので、一瞬コンクリートの車止めがあるように見える。これで車に徐行を促すためだ。

さてさて、せっかくなので今回はツリーの根元まで行ってみることにした。相変わらず平日なのにカメラを手にした人が多い。川を挟んで真下より見上げる。ここまできてしまうと高さのイメージがわかない。現在の高さは303m。東京タワーが抜かれるのも目前だ。
ツリーは最下部が三角形で上に行くほど捩れながら円形になっている。これは日本伝統の“反り”なのだそうだ。見る角度によって傾いて見えるのもこのためだ(実際に傾いているのではなく、これも多分錯覚と信じよう‥‥)
真下から見るとでかさのせいか1本1本の支柱がえらスカツリ下く華奢に見えてしまう。まぁ、アレックスモールトンもあれで結構頑丈なのだろうからツリーもこれで大丈夫なのだろう‥‥。
ツリーはタワーの構造自体が五重塔の構造を模写していると言う。五重塔の支柱は地面に完全に固定されておらず、また、1層ごとに別々に組上げられていることが、揺れなどに対して免震構造を為しているのだと言う。これも1000年以上前から受け継がれた日本人の英知だ‥‥?とするとエンタシスのエレベーター支柱部分は地面にしっかりと固定されていないと言うことなのかな?
法隆寺の五重塔は1300年を経て今尚健在だ。ツリーは果たして1000年もつのだろうか。スーパージェッターに聞けば簡単にわかることなのだが。

帰り道、性懲りもなくGジャンボを買って帰る。前回の年末の還元率3%と今日の確定申告のがっかりをなんとしてもリベンジしたいものだ。
‥‥



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ショート 毛野王国−6

6.毛野の挫折そして


先年2万の大軍を擁し、新羅の支援を受けながら物部麁鹿火率いる6万の大軍に敗れ去った磐井の記憶が痛烈によぎる。武力対立となればヤマトは数万の派兵が 可能であろう。かつては磐井一族を凌駕する国力を有した毛野連合も現在の半独立傾向にある首長たちを取りまとめてヤマトと抗することはもはや不可能であ る。関東の独立か、連合を捨て一首長としてのヤマトへの従属か、小熊はついにこの苦渋の選択を強いられることになる。

結局、小熊は後者を選択する。小熊に使主討伐の軍勢を進発させることは出来なかった。毛 野の状況にもはや選択の余地がなかった。すでに小杵と使主との戦端は開かれていた。しかし、大国毛野の援軍の希望が失われた現在、ヤマトの後ろ盾を背景に 攻勢に出る使主を迎え撃つ力は小杵にはなかった。小杵の軍は大敗し小杵は使主の軍に捕らえられ処刑される。小杵が領していた城南・城西・多摩地域は使主に より屯倉としてヤマトに謙譲された。まだ一部にヤマトとの交戦を唱える首長たちを抑えて、小熊は使主の武蔵国国造就任を承認するしかなかった。

乱終結の後もヤマトより小熊に対して制裁や処罰に対する勅旨は訪れなかった。上毛野が直接反乱を起こしたわけではなく、蝦夷統制の盟約は依然実行されてい た。大和には直接小熊を討伐する名目もなかった。しかし、すでに小熊の取った態度は毛野連合の分解を意味していた。大和と各首長たちの個別の折衝を抑える ことはできなかった。

毛野連合を構成していた各地の勢力は完全に独立化され、ヤマトによって随時国家行政機構への組み込みが開始される。彼ら首長はそれぞれヤマトの支配体制の もとに国造に任命され政権維持と本領安堵が認められる。武蔵の国都が現在の行田に移る。埼玉古墳群が今もなおその権力の威容を今日に伝えている。やがて上 毛野も一行政区としてヤマトとの従属関係のなかでの存続しか生き残るすべがなくなる。

それは出雲・吉備・筑紫についでその大権力を誇った毛野王国とも言うべき連合国家の終焉であった。武蔵の国に双子山・鉄砲山・将軍山など100m級の大型墳墓が相次いで造営される頃、一時的に上毛野の地の墳墓は小規模化する時代がある。これは丁度、武蔵・上野の乱が収束した時期と重なる。この時期、上毛野は一時的な瓦解状態にあり、巨大な前方後円墳墓の造営はできなかったのかも知れない。武蔵国造の乱後の小熊がどのような立場に置かれていたのか知る由もないが、毛野の分裂とその宗主権を失った苦汁の日々であったに違いない。


エピローグ


しかし、ほどなく毛野には新たな道がうまれた。以前よりヤマトに服従しない関東以北の蝦夷たちが毛野の分裂により、関東・東北での軍事力の停滞を背景に各 地で反乱を起こし始めた。その反乱鎮圧のためにヤマトは再び毛野の軍事力を東征に向ける方針を出したためである。ヤマトの地方官に甘んじた毛野であった が、ヤマトに服従した他の関東諸勢力には蝦夷を畏怖させ、反乱鎮圧をする力はなく、かつての名将知将を多く輩出した毛野一族の軍事力統制力を潰してしまう ことはヤマトの東国経営にはマイナスであることをヤマトが認めざるを得なかったためだ。毛野連合を構成する首長たちは国造として、関東では唯一独立君主の 称号としての「君」の名が与えられ、ヤマトの支配体制のもとにかつての領国支配の権益と世襲および東国における征夷統帥権が与えられた。関東全域を影響下 においたかつての大国毛野の面影はないが、それぞれの首長等は武蔵・上野の乱以前の領域支配体制が維持されたと見てよいだろう。そして上毛野氏も血族の宗 主家としての地位が安堵され、ヤマト統制のもとに緩い血族集団としての毛野が再生した。

毛野の地に再び大型墳墓が造営されるようになる。

小熊の没年・その後の系譜は不明である。しかしどの歴史書にも武蔵国造の乱に より小熊とその一族が処刑または処断されたと記すものはない。前橋市にある『上野総社神社』には、武蔵国造の乱から8年後の安閑九年に「上毛野国君小熊が、社殿を改築して郷名に因んで蒼海明神と称えるようになったとある。そらく小熊は上毛野君として直系を後世に残しその生涯を全うしたものと思われる。かつての毛野の本拠地である前橋市周辺にこの時期に造営された大型墳墓のいづれかが小熊の眠る墳墓であるのかもしれない。

やがて律令制度の全国施行により国造世襲が廃止され中央官僚が国司として赴任されるようになる。小熊の子孫である上毛野氏とその血縁氏族はその後も地方豪族 としては格別とも言える「朝臣」という高級貴族の称号を賜り、あるものは国司として分国運営を担い、あるものは軍権を委ねられ将軍としてヤマトの勢力拡大 に寄与し、またあるものは中央官僚としてヤマト朝廷内で手腕を発揮し、その後数世紀にわたりその名と功績を残すことになる。


おわり



東京に残された大型古墳は4世紀〜5世紀前半にかけて最盛期を迎える。埼玉古墳群の出現とはタイムラグがある。南武蔵の小杵と北武蔵の使主の抗争に当てはめると時期的に無理があるようにも思える。

この乱に上毛野がどの程度かかわっていたかも明確ではない。この乱により毛野が瓦解し弱体化したということは、考古学的にも、文献からも読み取ることは出来ないようだ。

ただし大和政権の支配領域拡大の中で関東に対する支配権強化の流れは古墳の埋蔵品、あるいは文献からも推測することができる。

しかし今尚関東各地に残された大型古墳が誰を埋葬したものだったのかを明らかにするすべは残念ながらないようだ。

 初めて上毛野君小熊の事を書いてから20年以上経つ。当時は関東一円に上毛野氏の影響を受けたとされる史跡があったとされていた資料も多く、その当時から更に古い資料等をもとに想像をめぐらせたものだが、この20数年の間に、考古学の進歩等により、今まで毛野の影響下にあったとされる古墳等の出土品や年代も見直され、今では毛野王国なる地方王朝の存在はほぼ否定されている。しかし築造当時は、畿内・吉備に次ぐ巨大古墳をつくる国力を持った毛野なる勢力があったことも物象が標す事実である。



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ショート 毛野王国−5

5.武蔵国造の乱


磐井の乱が終息して3年が経とうとしていた。ヤマトでは男大迹大王が老齢により長男の勾大兄皇子(安閑天皇)が実質的な大王位に就いていた(正式即位は534年)。物部氏も麁鹿火に代わり同族の尾輿が勢力を強めつつあり、また、手白香皇女の皇子である志帰嶋王(欽明天皇)を擁立しようとする蘇我稲目が急速に台頭してきていた。ヤマトは政権内部に常に動乱の種を持ちながらも着々と直轄領である屯倉を全国に増やしつつあった。

毛野連合はいまだ地方政権としての強大な権力を維持していた。各首長たちも表向きは小熊を最高首長として纏まりを強めているかのように見えた。しかし内部ではすでに武蔵・常陸・上総・下総の首長たちがそれぞれの外交と政策を打出し、毛野連合の意向に従わなくなりつつあった。毛野がいまだ強大な連合機能として崩壊しないのは、各首長等がそれぞれの利権を守るため大国毛野の蓑を利用していることと、フロンティア気質ともいうべき東国人の独立意識、そして最高首長としての小熊の巧みな利害調停による連合運営にあったと思われる。

しかし磐井の乱鎮圧による磐井一族の末路とヤマトの中央集権の増大は毛野連合を構成する各首長には、より身に迫る危機として心中寒駆らしめる事態となっていた。ヤマトはやがて毛野に対して本格的な内政干渉をしてくることはヤマト自身を含めて自明の理であった。出雲・吉備はヤマトに征圧されてすでに久しく、尾張、越は一族をヤマトに送りこみすでに中央を構成する豪族となっていた。そして九州北部に強大な権力を誇った磐井の滅亡は継体22年(528年)、つい数年前のことであった。表向きは同盟関係を維持しているもののすでにヤマトに抗する勢力は毛野のみとなった。この時点ですでに連合の各首長たちは大和と毛野の二者選択を迫られていたのだ。しかしそれを身にしみて感じていたのは、他ならぬ小熊自身であったに違いない。 無論それは小熊から求めたものではなかった。それはヤマトと中央豪族による中央集権化による全国統治の必然であり、動かしがたい時代の蠕動であった。

そしてそれは思いのほか早く、もっとも恐れていたかたちで現実化した。安閑元年(534年)武蔵国の一族使主がヤマトの干渉のもとに武蔵国造の地位をもとめて毛野に対して反旗を翻したのだ。 武蔵国も四道将軍、大毘古命を祖とする歴史の長い地方政権であり、ヤマトとの繋がりを強固にするとともに、ヤマトの仲介による渡来人やその文化を採り入れることにより勢力を保ってきたが、強大化する毛野に抗しきれず、同盟という形で上毛野の傘下に入り毛野連合を構成する有力首長としてその生存の道を開いていた。

武蔵国はもともとの武社国が武社下・武社上の二国に分割したもので、「直」の姓を頂く笠原一族がそれぞれを統治していたが、毛野連合下では依然武社上の笠原一族が主導権を握っていた。現在の港区や世田谷区を根拠地として100mを超える墳墓を造営する権力を有していた。小熊の時代の首長は小杵である。一方の武社上の笠原一族も傍流ではあるが代々ヤマトに近侍として出仕し中央とのつながりを武器に権力を増大しつつあった。祖にはワカタケル大王の下で「臣」の姓を賜った乎獲居がいる。当時は使主が首長の座についていた。ヤマトはこの使主に目をつけた。傍流であるが主家よりも権力を強めつつも毛野連合のもとでは主家への従属に甘んじている武蔵笠原家に対して、ヤマトへの忠誠を賞賛し武蔵国国造の地位を確約したのである。むろんこれはもともとの国造である主家小杵にとっては反逆であり、武蔵の毛野連合からの離脱・抗争を意味する。小杵は同族である使主の討伐を決意し、毛野連合最高首長である小熊に討伐軍の派兵要請をする。派兵を拒むことは毛野連合の崩壊を意味するばかりか、関東の覇権そのものが使主一族に奪われることになる。しかし上毛野が派兵に応じれば当然のことヤマトとの武力対立は必至となる。



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ショート 毛野王国−4

4.磐井の乱


小熊が父の後をついで毛野連合の最高首長となってすでに10年がたとうとしていた。都はその後、弟国宮から磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)に移っていた。男大迹大王のもと長年における畿内の混乱は収拾され、ヤマトは各地に屯倉をつくり畿内豪族連合の強化と諸外国に対する権威の復活を推し進めていった。

上 毛野君小熊10年の春、ヤマトからの使者が小熊の元に訪れる。使者の趣は、毛野連合に対する出兵要請であった。かねてよりヤマトと同盟関係にあった半島南 部の加羅諸国が新羅の度重なる侵攻を受けて危機に瀕していた。ヤマトは加羅諸国に対して鉄製武器や銅製品等の権益を有しており、同じく加羅諸国に権益を有 している百済からも新羅征伐のための派兵要請がたびたび来ていた。ヤマトは自らの権益を守るため、そして同盟国百済の要請にこたえるために新羅侵攻の大軍 派兵を決定したのだ。次第に威圧的になってくるヤマトの要求に毛野連合の首長たちも次第に不満や反発を強く感じ出したが、ヤマトより同盟の証として送られ る加羅諸国からの鉄器・青銅器は毛野の領国統治において重要な貢物でもあった。ヤマトが半島での権益を失うと言うことは、自らの両国支配の弱体化につなが ることを知っている首長たちもヤマトからの要請に渋々応えざるを得なかった。小熊は派兵了承を使者に伝える。分担兵力数は毛野の国力からすれば軽微なもの であった。毛野には東方の蝦夷を統治するという、ヤマトとの同盟当初からの盟約があり、多くの兵を蝦夷との境界線に駐留させていた。ここで無用の派兵要請 をすることで毛野連合の首長たちの反発を招くことを恐れたヤマトの配慮であった。 小熊は二千の陸兵を大和に向け進発させた。

しかし、上毛野の軍兵が進発して3ヵ月後、小熊のもとに驚愕すべき報がもたらされる。派兵した上毛野軍を含む近江毛野臣率いる6万の新羅討伐軍が、磐井率 いる1万5千の筑紫軍と筑紫の地で交戦状態に入ったというものだ。新羅の支援を受けた筑紫君磐井がヤマト軍の渡海を妨害し、近江毛野臣は筑前で立往生と なった。事態を重く見た男大迹大王が物部麁鹿火に磐井征伐の勅と軍権を委ねて毛野臣の軍勢を糾合し、6万を超える大軍をもって筑紫領に侵攻させる。磐井も また自国の影響下にある諸国の首長に出兵を促し、2万近い軍勢に増長した。地の利を生かして麁鹿火軍を各個撃破していく筑紫軍により戦況は膠着状態にな る。

このとき、磐井から小熊のもとに使者が訪れた。小熊の頭によぎるものは、宮での磐井との親交と磐井軍との連合による派兵要請である。この機を捉えて毛野が大和に向けて進軍し、主力軍が筑紫に釘付けにされているヤマトを東西から挟撃し瓦解させようとの提案がだされるものと思われた。

ことの機密性から、使者の謁見は小熊と数名の血縁首長との密会に近い形で行われる。事前に小熊より招集の掛かった首長たちも同様の目的と判断していた。確かにこの状況であれば、 満足な迎撃体制が摂れない大和に一撃を加えられるかもしれない。反ヤマト色の強い首長等はすでに勇み浮き足立っていた。しかし、ヤマトで数年を過ごしヤマ トの強大さを直にみてきた小熊にとってそれは全くの楽観論であり、また今の毛野には磐井軍のような統制も取れるものではなかった。召集された首長らととも に、使者との謁見が執り行われた。

しかし使者の口上は小熊をはじめ首長たちの不安・憶測とはまったく異なるものであった。

使 者の口から出た言葉は、ヤマトの度重なる要求に疲弊していく自らの領国の窮状と、麁鹿火の軍勢に含まれているだろう二千の毛野国の兵士たちとの交戦に到る ことを詫びることに終始し、筑紫に対する援軍や決起の要請は一切なかった。小熊はかつて友誼をむすんだ磐井と自らの兵たちの行末を案じながらも、事態を見 守るしかなすすべはなかった。

筑紫の戦は1年半に及んだ。磐井は強力な統制力で勢力化の豪族や軍勢を纏め上げていたが、時が経つにつれて寡兵である筑紫軍はヤマト軍に押されていくようになる。やがて磐井軍内でも有力首長らの造反や戦線離脱が相次ぎ、残された主力軍で筑後川を最終防衛線として麁鹿火と対峙した磐井は継体22年(528年)11月、ついに筑 後川の最終決戦で敗北した。記紀によると磐井は捕らえられて処刑されたとされるが、風土記によれば磐井は敗戦の後、耶馬渓の山中に逃れ行方知れずとなった とある。磐井の墳墓である岩戸山は墳丘長135m、北部九州では最大の大型墳墓である。磐井が生前に造営し、筑紫の司法機能を移設した政庁でもあったが、 磐井がここに永眠っているかは定かではない。磐井の子葛子はヤマトに対し、降伏の証として糟屋の屯倉を献上して連座を逃れた。現在の福岡県糟屋郡の地であ る。再び軍権が近江毛野臣に下賜され、毛野臣は新羅に向け出兵したが、兵はすでに筑紫の戦闘で疲弊し、兵力も激減しており、ほとんど戦果を挙げられぬまま 撤兵した。小熊のもとには筑紫での戦闘、新羅への渡海を経て七百の兵士たちが帰還した。七割近い兵が帰らぬ人となっていた。

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ショート 毛野王国−3

3.筑紫君磐井


小熊は都である人物と交流を持つことになる。小熊と同じくヤマトに出仕していた筑紫の王子磐井である。磐井は小熊より十歳近く年長であり、すでに筑紫の棟梁を継ぐべく帰途に着こうとしていた。物静かではあるが知性的な小熊に対して磐井は覇気を持って歳以上に大きく見える存在であった。 筑紫の国は現在の福岡県南部、筑後平野の大半を含み、邪馬台国連合崩壊のあと、ほぼその領域を継続するかたちで代々筑紫一族(筑紫君)が統治していた。筑紫の国は石人・石馬や装飾古墳などヤマトとは違う独特の先進文化を誇っていた。磐井の祖父の代より100mをこえる大型墳墓を造営する国力を有し、磐井の代には肥の国・豊の国もその影響下に収め、九州北部全域にその覇を唱えるにいたることになる。

磐井は男大迹大王が即位したころから度々都に出仕していた。筑紫一族も半島との交易で栄えた九州の名門ではあったが、度重なるヤマトの半島出兵に際して多大な犠牲を強いられてきていた。また、以前より新羅と親交のあった筑紫一族はヤマトの百済一辺倒の外交にも不満を持っていた。それでもヤマトとの武力衝突は避けたい筑紫王は自己の権益を護りつつヤマトとの有利な関係修復の道を模索していたものと思われる。男大迹大王の擁立に対して関係改善の機会と捕らえ、いち早く男大迹支持に回わり、ヤマトと有利に交渉を進めることを買って出たのはほかならぬ磐井本人であった。

磐井は豪胆な気性の持ち主であったが、自己と同じ境遇、同じ悩みを持つ小熊とは気が会ったようだ。また大国毛野の跡継ぎとしての小熊に、歳の差を越えて敬意を持って接した。

磐井を通じて小熊は同じ境遇としてヤマトに出仕している近江毛野とも出会うことになる。故郷の地と同じ名を持つ近江毛野に最初小熊は親近感を覚えたかも知れない。近江氏はもともと小国であり越の傘下に含まれていた。彼らに与えられた称号からもわかるように、小熊・磐井は主権国家の王を認められる「君」であるのに対して近江毛野は臣下を表す「臣」である。しかし男大迹王が大王になったことにより、近江毛野は大王の譜代の臣として急速に台頭してきた。近江毛野の態度の中にも譜代の臣であるという驕りがしばし見受けられたが、磐井には心底ではそれに対する反発も押さえ、それも受け止めてしまう包容力があった。磐井は近江毛野を同僚として受け入れていた。小熊もけして驕る人間ではなかったが、自分には到底持ち得ない磐井の度量に魅せられていったのだろう。

磐井は今回を最期の出仕として筑紫の地に帰還しようとしていた。磐井も老齢の父王のあとを継ぎいよいよ筑紫の最高首長の座に就こうとしていた。小熊は磐井から帰還直前の誘いを受けた。いずれ王位を継ぐ2人である。しかも倭国の西と東の果てである。首長となれば気軽に国外に出ることはできない。ましてやヤマトを無視して王通しの直接盟会など許されるはずも無い。一旦別れたら生涯会うことはない。二人は一晩酒を酌み交わし、自らや自国の未来を語りお互いの友誼を深め合った。短い期間であったが小熊にとって磐井との出会いは都での出仕中で最も印象的な出来事であった。

磐井との別れから1年の後に、小熊は急遽の帰還をすることになる。父王が病に倒れるという報を受け、男大迹大王の許可を得て小熊も上毛野に帰り父王の補佐を勤めることとなった。小熊の帰還に際しては、男大迹大王自ら宴を催して、大伴金村・物部麁鹿火・蘇我高麗、稲目親子など中央の錚々たる豪族たちの見送りを受けることとなった。これもなにより大国毛野といずれ上毛野の棟梁を継ぐべき小熊に対するヤマトの懐柔策の一環であった。



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ショート 毛野王国−2

 

2.男迹大王

 


各地方豪族たちはヤマトとの親和政策として、また後継者の皇族や中央豪族とのコミニュケーションのため子弟たちを都に出仕させることを常としていた。小熊も上毛野の最高首長を継ぐものとしてヤマトに出仕することになった。出仕といっても国力の違いにより、子弟たちの処遇には大きな差があった。天皇の近侍として直に宮に仕えられるものはまだしも、小国の子弟たちは中央豪族の家臣のごとく取り扱われるものも多く、またその期間も様々であった。大国毛野の御曹司である小熊への待遇は中小豪族の子弟等とは格段の差があった。

小熊が出仕した都は、新しく造営された筒城宮(つつきのみや)と言い、山城国(現在の京田辺市周辺)にあった。当時は越の王男大迹(継体天皇)が、ワカタケル大王崩御以降のヤマトの混乱に際して大伴金村に擁立されて大王位に即位していた。男大迹大王は507年に樟葉宮で即位し筒城宮・弟国宮と遷都を続け、526年に20年の歳月の後についにヤマトの中心とも言える磐余玉穂宮への遷都を実現する。

この時代の大王は現在の象徴天皇に近い存在だった。ほとんどの大王は強大な実権は無く、強力な豪族の後ろ盾のもとに即位することができる存在だった。国家の運営は彼ら大王の後ろ盾たる最大豪族を中心に中央豪族の合議制で為されていた。大王は決められた政策を承認し勅として布告することしかできなかったが、時の最高権力者たちも大王より発せられる勅によってのみ他の豪族をつき従えさせられるという相関関係であった。記紀などで見るような大王自らが政をおこなってきたような記述は、天武帝による強力な集権体制のもとで絶対天皇制確立のために装飾されたものである。

この象徴大王制ともいえる立場に唯一反目し、大王自身の権力を奪取しようとしたのがワカタケル大王である。大王は時の有力豪族たちが擁立しようとする兄弟・近親を次々と滅ぼし、自らの力で大王位に即位した。即位後も大王専制に反対する豪族たちを執拗に弾圧していった。これにより有力豪族が没落したことが、大王崩御の後の権力構造の混乱となっていく。それは中央より、むしろ地方豪族への統制力の低下や半島における倭国権益の低下において深刻であった。地方豪族のヤマト離反が相次ぎ、半島では加羅諸国に有していた倭国の権益が新羅・百済に次々と奪われていった。男大迹大王が20年も大和入りをしなかったために、ヤマトと男大迹大王との対立や2王朝並立抗争などが唱えられてきたが、むしろヤマトでは弱体化した中央豪族たちの危機感により混乱は早期に収拾されたものと思われる。むしろ中央豪族の意により、自己の基盤である近江・越・尾張の中央との連携強化と、畿内の大河川である淀川水系を押さえることによる周辺豪族の掌握等の政策によるものと思われる。

上毛野および関東の諸豪族は当初、男大迹擁立には反対、あるいは中立の立場をとっていたものと思われる。これは中央豪族として早くより東国に影響力を有し、上毛野氏とヤマトの橋渡し的役割を持っていた物部氏に配慮したためであるが、物部氏が男大迹王擁立の立場に変わったことにより、上毛野氏も小熊の父王がいち早く男大迹支持を打ち出し、他の首長の説得や反対する首長の討伐等による、関東における男大迹王の勢力拡大に貢献する。

小熊は大国毛野の後継者として、また関東における男大迹王支持基盤としての上毛野王の子弟としてヤマトに迎えられた。都での生活は他の地方豪族の子弟とは異なり、比較的自由な立場で宮の内外での活動を許されていた。まだ若者の小熊にとって、新しく都として造営される壮麗な宮殿や新政庁、中央豪族たちの館、そして近隣に群する、偉大な祖父の陵墓をはるかに凌駕する巨大な大王稜は驚愕するものであったに違いない。


 

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ショート 毛野王国−1

関東の古墳めぐりが好きである。古墳の被葬者やその時代についてあれこれ考える。ちょっと想像をたくましくしてストーリーを作ってみる。過去に作った原文を大幅修正して物語タッチに。歴史には素人なので時代考証も考古学的見解・歴史資料も無視したところがありますが、ご容赦を。オタクの知人から歴史考証も設定もまるでいい加減過ぎると批判を受け、いったん没にしたが、また少しリニュアルして再投稿。

ショート毛野王国−1


プロロ−グ


今から1500年の昔、関東に二世紀にわたり君臨した王朝があった。平将門の関東独立をさかのぼる400年の昔に現在の群馬県南部を根拠地に関東平野全域をその影響下においた毛野一族、そしてその宗主権を代々世襲した上毛野氏。

大小数千とも言われる関東の古墳群やその出土品は記紀の信憑性を裏付ける考古学的物証であり、毛野がヤマトとの深いつながりを持っていたことを立証している。しかし同時に関東全域から毛野の影響下にあったと思われる独特の出土品も発掘され、毛野の歴史がけして記紀のいうヤマトの属国、征東のための前線基地ではなかったことも明らかとなった。

上毛野氏およびその血縁諸氏族の名は記紀や続日本紀ほか多くの史書に地方長官や中央政府の中堅官僚として、また各地への遠征軍指揮官として、いずれもヤマトの発展に寄与した人々として登場する。

その中でただ一人、反ヤマト側の人物として、ヤマトに反旗を翻したとも取れるほどの悪意をもって描かれている人物がいる。それが上毛野君小熊である。


1.上毛野君小熊


小熊の生まれ育った毛野の国は、記紀によれば
崇神天皇の長男豊城入彦の東征により建国されたとあるが、事実は不明である。おそらくは弥生時代後期に開拓者として西より流れてきた氏族集団と、以前よりこの地を根拠としていた採集民族から発した氏族が融合を重ねることにより地域政治体として拡大していったものと思われる。

毛野地域は、現在の群馬県南東部の扇状地平野と栃木県南部の河岸平野の二つの纏まりを持っていた。ヤマト側の文献では毛野の地を上毛野と下毛野の二国に分離したとあるが、これは後世の装飾であり、その当時毛野の人々にはそれぞれの支配氏族の領地であり、ヤマトによって分国されたなどという意識は毛頭なかったと思われる。やがて上毛野を根拠地とする上毛野氏が宗主家として毛野全体を掌握し、ヤマトとの連合国家形成に至る。ただしヤマトとの関係はけして従属的なものではなくトラスト的連合体であった。上毛野国は依然周囲の国々を吸収併合あるいは同盟関係を締結して、下毛野・武蔵・相模・上総・下総をその影響下におく関東の大国にのし上がった。 また、八綱田・荒田別・田道など歴代の将軍による蝦夷征伐に名を馳せ、蝦夷・ヤマト双方から畏怖される軍事大国でもあった。

上毛野君小熊は今日伝えられているような粗暴な大男ではなく、むしろ繊細な面も持っていた若き王であったと想像する。彼は御諸別王より上毛野の最高首長を受け継いだ大荒田別を祖にもつ上毛野一族の直系であった。もちろん武人の家系を継ぐものとして、武人の嗜みは周囲の首長以上に求められたであろうし、実際に兵を率いて戦いに赴いたこともあっただろう。また宗主家の立場としての力量も備えていた指導者であったと想像する。

ヤマトの史書には中華思想が色濃く反映している。敵対するもの、辺境の人々を著しく見下す
記述が多い。小熊と言う名前も実名ではないだろう。小熊・小杵・
磐井など大和に対峙するもの
を故意に卑しく表現していると思われる。しかし彼らの実名を知るすべもないのでここでは史書
に書かれた表記を使うしかない。

毛野国は5世紀初頭から中葉にかけて最盛期を迎える。小熊の時代よりも半世紀以上ときを遡る。現在大田天神山と呼ばれる日本屈指の巨大墳墓は、二重の周溝を構えその全長は360mに達する。、この規模を超える墳墓は大和・河内の天皇家一族の陵墓と、当時大和に次ぐ権力を有していた吉備国の首長稜のみであった。太田天神山の被葬者は大荒田別とも、その子竹葉瀬ともいわれているが、小熊の時代にも、いまだ天神山は白い葺石に覆われた三層の巨大モニュメントとして、縄文海進の名残で当時湿地と毛細河川に覆われた北関東の地にその威容を誇っていたと思われる。

小熊の父の名は伝えられていない。小熊の父もこの大国上毛野の宗主家の王として君臨した大首長であった。しかし、小熊の父の代になると日本全国で有力首長の独立傾向が見え始める。ワカタケル大王の専制政治の崩壊を機に徐々に地方権力を統制化におこうとするヤマトの方針に反発する各地方のヤマト連合体を構成する首長たちの反乱が多発するようになる。

関東の大国毛野も、上毛野一族を筆頭に下毛野氏・朝倉氏・檜前部氏・車持氏・有馬氏等の血縁氏族が上毛野君を宗主家とした連合を形成していた。個々の首長は独立した領地を持っており、上毛野君はあくまでも彼らの調停役としての宗主家の立場であり、各氏族の意向を無視した独裁政権ではなかった。彼らは時には総主家に服属し、あるときは反発しながらもそれぞれの利権確保のために大国毛野の構成する氏族となり、宗主家を盛りたてていた。この点ではまさにヤマトと同じ国家形態が坂東の地にも存在していたわけである。やがて各氏族の勢力が拡大するにともない、彼らにより独自志向の強まることは必然であり、またヤマトも軍事大国上毛野の強大化と独立化を恐れて、連合国家である毛野の分裂を画策しつつ関東各地の首長に謀略の手を差し伸べてきていた。

小熊はこのような時代に若くして父の後を継ぎ、上毛野傘下の首長の統制と同時にヤマトの圧力から自立しようとする毛野の族長たちに挟まれて苦しい舵取りを迫られることとなる。

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滝山城攻略その2

捲土重来。滝山城攻略失敗の翌日。仕事が16時前に終わったので再度滝山城を攻める!
今回は城址の北側、多摩川沿いの運動公園の駐車場に車を停めて、そこから歩くことにする。
16号拝島橋の手前から運動公園への道に入り、一番奥の駐車場から歩くと本丸に続く遊歩道まで近そうだ。駐車場は自由に入れるようになっているので駐車場の利用滝山城5案内を見ると16時までになっていた。時間はすでに16時になる。それ以降は出口が施錠されるとのこと。これはまずい、時間までは調べなかった。ここから城郭を一回りすると1時間弱は掛かりそうなのでここも断念せざるを得ない。

滝山城6搦め手攻略失敗!流石堅城?

もうひとつの情報として、昨日最初に訪れた滝山城址下バス停の付近に民間駐車場があるとのことだった。結構探した挙句なんて事はない、昨日通行止めの手前Uターンした場所が駐車場だった。とにかくお金を払って停めさせてもらう。短期攻略で軍費を惜しんではいけない??

駐車場から坂を少し登るとすでに三の丸に着く。すでに深い空掘と土塁が囲んでいる。山城の素人にもかなりの規模の城郭であることが見て取れる。

三の丸のすぐ上に千畳敷という広場がある。ベンチなどもあり公園のような広場だ。当時は詰め所や櫓でもあったのだろうか。

滝山城8千畳敷を過ぎた当たりで堀に沿って道より外れてみる。この辺はちょうど二の丸の下に当たるのだろうか。堀と土塁が見事だ。いたるところに窪地がある。当時はため池だったらしい。水の手の確保も十分だったようだ。滝山城9

尾根を縦走する道にでて本丸を目指す。いよいよ中の丸と本丸を隔てる空掘に向かう。今は遊歩道の切通しのようになっている深い堀の上に橋があった。当時の橋を再現したものか? 縄張り 図にも橋が描かれている。橋の袂から一気に本丸へ攻め上る。 ついに本丸に到着! 広〜い。まだ残雪が残る本丸址に井戸があった。覗いてみるとかなり深い。 やはり水の手がネックとなる山城なのでかなり気を使っていたのだろう。当時の深さはわからないが、井戸の規模からするとかなりの水量を確保滝山城12できたのだろ う。

右手奥には滝山城跡の石碑があった滝山城11。本丸攻略成功である。ちょっとここで一服と思ったが、なんとタバコを車に忘れてきてしまった。まっ、いたるところに防火槽があるように山火事には注意を払っているようだし。祝いの一服は下山してからでもいい。

本丸の前方の小高い丘に社がある。どうも悪い癖かあの形を見ると前方後円滝山城10墳かと思ってしまう。どこからか子供の笑い声が聞こえる。社の裏手のほうか。社へ行って見る。霞神社と標されていた。とにかく参拝。まだ子供の声が聞こえる。裏手のようだ。裏へ回るとまた社がある。その横より多摩川(秋川か)を挟んだ昭島の市街地が見通せる。真下は急斜面で先ほどの運動公園となっていた。
滝山城13
そういえばいつの間にか子供の声が消えていた。5時に近づき夕暮れも迫っているのだが、家の中でもないので座敷わらしでもあるまい。
橋を渡り、中の丸から帰路に着く。途中にも桜の木が多数植えられていた。もうすぐ最高の季節を迎えるのだろう。城跡にはなぜか桜が多い。高遠城も何度か訪れたが桜が見事であった。古滝山城7城の桜は綺麗だ。過去に幾人もの血を吸っているからと言われるが、ここの桜はおそらく戦国からのものではあるまい。山の自然や風景、歴史や悲話などが見る人の感覚を覚醒してよりそう思わせるのだろう。

小一時間の散策であったが、夕暮れ近い時間とはいえ誰一人出会わなかった。もっと散策人がいると思ったのだが、勇んで攻め上ったが空城の計を食らった感じた。

関東屈指の大城郭と言われながら、武田信玄に落城寸前まで追い込まれたのを契機に八王子城にその役目を譲った滝山城。しかし短命に終わらせるには惜しい縄張りであったことは確かのようだった。

 


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滝山城攻略その1

週末にかけて八王子方面の仕事ができたので、合間をみて以前より行ってみたかった所にいくことにした。

滝山城址。

1521年に山内上杉氏によって築城された天然の要害だ。1559年に北条氏照の居城となり、大幅な改修が施されて関東屈指と言われる大規模要塞となった。1587年に氏照は八王子石神井城址城に本拠を移すとその役目を終えて、やがて廃城となる。
現在は自然公園となり丘陵の散策スポットになっている。

古墳ファンを自称しているが中世城郭も嫌いではない。昨年は石神井城址、一昨年は坂本城址を訪れた。滝山城も気になるスポットであった。

仕事の合間という条件で、時間は約90分。普通ならゆっくりと昼食をとってつぶす時間だ。現場から滝山自然公園までは約20分。散策に使える時間は50分程度。この50分で天然の要害を攻略しなければならない。
短期間に城を落とすために、最短ルートから攻めることにする。滝山城1滝山城址下バス停付近より三の丸・二の丸・中の丸と攻め上るルート。車でどこまでいけるかわからなかったが、どこかに駐車場でもあるだろうと行って見る。しかし、城址の案内板の道は細い路地で入るとすぐに車両通行止めになっていた。
周囲は農園とアパートで勝手に車を止められそうもないので断念。別の攻め口を探す。滝山街道を16号方面にしばらく行くとまた城址の案内板があった。徐行で素通りしながら見ると今度は道も少し太い。そこから行くことにして、引き返して再突入。

ナビの本丸址からはかなり離れているが、道は滝山城2本丸方面にどんどん上っていっている。いけそうだと期待している瞬間、道はいきなり未舗装となり畦道のようにになってしまう。車一台が藪にボディーを擦りながらやっと通れる程度。しかもまだ雪も残りすごい轍。直結四駆にスタッドレスを履いている。泥雪や急坂は苦にはしないが、この悪路にロングホイールベースはたまらん。もう限界というところにちょっとしたスペースがあったので端に停めさせてもらう。

ここから徒歩で登る。やはり山岳戦に騎馬は無理のようだ。しばらく歩くと尾根道に出た。周囲に雪のある遊歩道を歩く滝山城3と看板があるので見てみる。
この尾根道を行くと本丸址に行くようだが、どのくらい歩くのかわからない。時間もかなりたってしまったし車も心配だ。しばらく歩いて桜の群生林まできたが、仕事に戻れなくなると困るのでここで断念して撤退する。

流石に関東屈指と言われる城郭を、昼飯の時間で落とすなどとは天下人にも出来ないことだ‥‥
帰りもぼこぼこ腹を打ちながらふもとに下りる。こちら方面には滝山城4翌日以降も来るので次の機会に備えて情報をとることにする。

第一次滝山城攻略失敗!


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スカイタワー西東京

市ヶ谷の通信塔 何かと東京スカイツリーが気になりだした今日この頃。
いつも引き合いに出していた“田無タワー”ことスカイタワー西東京。たまに通る新青梅街道や所沢街道もタワーは素通りで、信号待ちのときに見上げるくらいしかなかった。しかし今回仕事で武蔵村山方面に行くことになったので、ちょうどいい機会に寄り道してみた。

“スカイタワー西東京”。HPの受売りではマルチメディアタワー認証第一号の多目的電波塔として1989年に完成した。運営会社は株式会社田無タワー。そう、地元民がそう呼び、自分も愛称のつもりで呼んでいた呼称は運営会社名だったのである。
高さ地上195m。吊橋主塔も含めた塔としては全国第6位、東京都では第3位の高さを誇る。

東京で3番目?1番は当然東京タワーの333m。では2番はと言うと意外なところにあった。市ヶ谷の防衛省内にある通信塔‥‥正式名は知らない。国家の最重要機密??なのだろう‥‥
青梅街道に抜けるためよく通る靖国通りからそれを見ることが出来る。確かに高いアンテナがあるなぁ程度にしか見ていなかったが、ランキング田無タワーをみて仰天。全国第5位、220mもあったとは‥‥早朝の靖国通りにちょっと車を停めてワンショット。機密漏洩にはならないよねぇ。因みに、帰りも通ったのだが気付かず通り越してしまったので、ライトアップはされていないのだろう。きっと灯火管制なのだ?

市ヶ谷より1時間弱で田無(今は西東京市だ)に着く。北原の交差点を過ぎるとそれはいきなり眼下に飛び込んでくる。今回は裏道に入って初めて田無タワーを目前で見た。スクエアながらどこか仏塔の相輪を思わせるような雰囲気だ。晴天に良く映える。

自分にとって、このタワーの魅力はむしろ夜のライトアップにある。東京タワーのライトアップも当然綺麗だが、東京タワーは周囲が明るすぎて、遠目には存在感が薄い。田無タワーは周囲に高い建物が少なく、平原の中に忽然と現れた仏塔のごとき存在感がある。その光はまさに光背のような広がりを見せる。(ほめすぎか‥‥)
朝とは打って変ってその日の夜は吹雪のように雪が舞う天候となった。
帰り道、朝とは反対側の裏道に車を停めて、雪の中で撮影。田無タワー3雪と相俟って幻想的であった。

そういえば田無タワーのライトアップは天気によって色が変わると言う話だったが晴れの日でも、曇りの日でも自分が見るのは紫のライティングである。今日は雪が降ってきたのにいつもの色だ。今は1色だけなのかと思い、帰宅後HPで確認。
カラーは3色。翌日午前の天気予測によりカラーが変わるとのこと。つまり今まで自分がライティングを見た日の翌日午前中は“晴れ”と言うことだったのだ。これは面白い趣向である。

田無タワーは電波鉄塔として工作物となっており、一般の展望設備もなく施設内の立ち入りも出来ない。(無料駐車場まであるのにねぇ‥‥貸し会議室用か)
HPのライブカメラの映像は、都心の高層展望台からの風景とはまた別の風情がある。これを肉眼で見られないのは残念だ。
すでに高さでは建造中の東京スカイツリーに抜かされており、全国7位となって入賞を逃してしまうことが確実になったが、これからも田無のシンボルとして、退屈な夜の青梅街道のビューポイントとしてドライバーを癒してもらいと思う。ライトアップ








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深川不動尊 その2

1月28日は初不動の日
今日は休暇をとり深川のお不動様へ。
我が家では初不動の日に、我が家のお札・お守り・数珠等々を納めてその年の護摩焚きをしていただく。恒例行事である。
今回は奥の一番前に座ることが出来た。良いことがあるかな。護摩焚きを目前で見れるのははじめてである。今回は我が家のお札も目前で見ることが出来た。思わず合掌!
護摩焚きが始まる。最初は静かな読経から、法螺貝の響きとともに護摩に火がつけられ、燃え上がる炎とともに3台(3張と数えるのか?)の大太鼓が強烈なビートを叩き出す。このときばかりは般若心経がハードロックにもラップにも変わる。この響きは何度聞いても鼓動が高鳴る。しかも護摩の炎の真横でついつい体が動きそうになるのを抑えて炎を見つめる。我が家のお札の番になってまた合掌。 
やがてビートの終焉とともに炎が静かに消えていく。そしてリンの音色とともに僧侶が退出していく。心が洗われる瞬間。

さて、お不動様も終わり、我が家に帰って次のイベント。今日は満を持しての宝くじとお年玉年賀はがきの当選番号確認。今回は何かいい結果が出そうだな、‥‥と思いつつ1枚1枚。

結果はものの見事に大はずれ!
せめて元が取れるくらいは‥‥との期待さえ裏切られる惨敗。
まあ、くじの当たりを拝むこと自体が煩悩そのものだな!
護摩焚きは心願成就のために行うものではあるけれど、本来護摩の炎は煩悩にたとえた薪を不動明王様の智慧の炎で焼き払うものといわれている。煩悩を焼き尽くし無心となって初めて心願が成就するものなのだ。自ら精進せずして神仏も手を貸してくれないのだろう。
深川不動
帰ってきた娘が、自分のいない間に宝くじと年賀はがきを見てしまったことに、“自分が一番幸運を持ってくるのに無視した!”と怒った。
 こいつ最近口八丁になってきやがって‥‥と思いつつ帰りに買ってきたチョコボールを渡してなだめる。
開けてみると、なんと金のエンゼル!!
 やっぱ娘にくじをみさせればよかった!

1月30日追加記載

お守りの追加購入?のために再度お参り。
今日も護摩焚きを少しの間参拝。先日は写真を撮らなかったので今回1枚。
すでに節分の準備がされていた。(1月31日の智童豆まき式があるそうだ) にほんブログ村 その他生活ブログへ
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ツノが生えた!

 新春を迎え我が家のCapreo2匹にやっとツノが生えてきた。
カプレオは小鹿の意‥何でBambiじゃいけないのか。Bambiは日本でこそ小鹿の代名詞になっているがれっきとした小説の中の固有名詞である。
 4駆車のことを素人さんはJEEPと呼ぶが、これもれっきとTS−7 バーエンド2した登録商標であるのと同じようなものである。しかもBambiはノロジカ(原作では)の子供。シマノのミニベロ用コンポが“のろ”鹿ではイメージも悪かろう。
 
 話はさておき2匹に生えてきたツノ、TS−7はタイオガパワースタッド6mini。602はサーファスデュアルデンシティ。
 セコとざる得品で締めて1600円也。ずいぶん安いツノである。2車とも右側バーエンドに必需品のB&Mミラーがついているためそれぞれミラーの位置を変更。602 バーエンド2
                   
 とにかく近所を試運転したが、わずかの一般走行では効果は不明。とりあえずかっこだけかな。
 これがまた抜けて大きなツノに生えかわるかはツノしだい。
 狭い駅やスーパーの駐輪場で群がる恐ろしいママチャリとツノをつき合わせてけんかになりそう。怖いもの知らずのママチャリは平気でかよわき小鹿に体当たりしてくる。小鹿はいつも負けている(毎回ミラーを曲げられている)。
 とりあえず高額車の“ブルホーン”とだけはけんかしないように注意しよう!
602 バーエンドTS−7 バーエンド
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602復活

ボルト穴加工昨年暮れよりトラブルの続いていた602。

F20−AS用アヘッド折りたたみコラムポストのねじ山をつぶしてしまい、臨時にTS−7のコラムポストを代用していたが、ポジションがあわなかったり、ワイヤー類に負荷が掛かったりしていたため加工修理を強行した。

 ねじ込み側の一体成型部分をグラインダーで削り、鑢で整えてフラットにし6mmアレンボルトをナットでボルトオンする。
 削った部分に補修用の黒ペイントを施した。とりあえず家
ボルト穴加工2にあったアレンボルトで対応。少し見栄えが悪いが、後々気になるようなら黒のアレンボルトに袋ナットでも見つけてこよう。ま、そこまでこだわる必要もないが‥‥

 籐カゴがついて、サンタさんにもらったBBBソフトシェープも装着。真ん中の痛みは解消しそうだ。ただし15kmほども走るとやはりインナーのラインが痛くなる。これはどうしようもないのか?

 無事ストレートポストが復活したが、602でこの形状にこだわるのはスタイル的な要因だけではない。買い物仕様に使っている602は荷物を持っている場合にポストの天辺を片手で押さえるだけで楽に押せるのだ。それにはこの形状と高さが一番いい。

復活602
 なにやら高額車か、激安車かわからない自転車になった(実は結構掛かっているのだが)。
 
 羊の皮を被った狼か、狼の振りをした羊か?乗る人間の体力しだいだ‥‥

 ‥‥そのうちリアにも大きなカゴが着いたりして、トイレットペーパーを段積みして快走する日も近い?‥‥

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どじょうが逝った

 本日、我が家の同居人であるドジョウの一匹がテーブル下より遺体で発見された。
昨年7月のドジョウ掬いで娘が捕獲して以来、二匹とも元気だったのだが、2日前ころより一匹の姿が見えなくなった。
 よく底土にもぐっているのであまり気にしなかったのだが、えさを蒔けばがっつきにでてくるのだが、2日間見ていない。気になるので底土をほじってみたがいない。周辺を探すとテーブル(物置台に使用している。水槽もここにおいている)の下に埃に巻かれて硬くなっていた遺体を発見。水槽に水を足してかなり水位が上がったことと、ふたの隙間が完全に閉じられていないため、隙間より飛び出したようだ。非常にショック。
 自然の摂理で死ぬのなら仕方のないことだが、こうゆう死なせ方は悔やまれる。

 昨夜は父が(自分です)貧血状態になり倒れてしまった(たまにあるのでそれほど驚かないが)。
倒れた場所がテーブルの横。父の具合が良くなったら今度は娘が吐いてしまった。娘はテーブルの横でお菓子を貪っていた。父も正月は不摂生をしていたし、娘も暴飲暴食だった。単なる偶然だろうが、今思うとそこにいることを知らせていたのかもしれない。
 娘に捕まるくらいのアホなのだが、もう少し考えろよ。いくらすぐ横だからといって二人して苦しんでいる親娘が奥暗い陰になった亡骸なんかに気がつくわけないぞ。
 
 とはいえ、我が家のドジョウは家族の癒し系だったので余計心が滅入る。残されたもう一匹が不憫である。本人は気にしてか気にせずか、えさがきると貪りついているが‥‥
 なくなった一匹はベランダのミニガーデンに埋葬。侘びと悔やみの合掌。安らかに眠れ。

 残りはたくましく生きろ!一匹で倍の癒し系をしなければならないぞ‥今年の夏にまた娘が相棒をつれてくるまで‥‥。
 
 
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602 トラブル その3

ママかごを買った サドルとともに付ける予定だったパーツ。
なんとママかごである。通勤と買物主体の602であるが、最近は使用頻度が増え、かなり遠方で大量の買物に使用するようになった。
 娘が生まれる前から家にあった現行かごは7年以上経っても健在なのだが小さすぎて使い勝手がすこぶる悪い。そこで大きなかごに買い換えることにした。娘と一緒に往復17kmのお買物の旅。
 ターゲットは東雲イオンで見つけた籐かご。丸型でおしゃれな上3,000円ちょいとお手ごろ。店で合わせてもらったが、今のキャリアではアッパーボルトの位置が合わず、スレッドのロックナットにママかごブラケットを取り付けることにした。

 さて、帰宅してかごを取り付けるたなめてんじゃないぞ!めにアヘッドのコラムポストを取り外す。アーレンキーでまわし始めると“ズルッ”ボルトと一緒にねじ山が全部出てきてしまった!!素人改造なんてなめんなよと言わんばかりになめてしまった。
 さて困った!とりあえず生きている山の部分を生かそうと思って合うボルトを探す。ない!合わない!!
 どうもネジが特殊もんらしい。7ミリのピッチ1らしいがいまどき7ミリなんて規格品ないよ!メーカーには在庫があるらしいが同じ長さのネジでは回せない。タップで切りなおすことも出来ない。もともと3,000円そこそこのものなのだが、ネジ1本でお気に入りのポストが使えなくなるのも悔しい。
 もともとスレッドタイプのコラムなのでコンバーターのみの固定だったので締め付けに力をママかご2入れすぎていたようだ。しかし残り1本の固定では余計怖いので、急遽TS−7のポストで対応。ポジションが低すぎたので、またまた物置から昔のライザーバーを引っ張り出して取り付け。とりあえずさまになったが、シフトレバーが斜めについたり、ブレーキワイヤーがライトに干渉したり‥‥
 ちょっと何とかしないと合併症になりそう。
スタンド滑落以来、602号トラブル続きである。
 

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クリスマスに!

クリスマスプレゼント 今年も我が家にサンタクロースがやってきた。
 娘にはDSソフト、お母さんにはDSi−LL、お父さんには自転車のサドル。こんなもんが枕元においてあっても娘はサンタさんがどうやって置いたかは気にしないらしい。
 さてサンタさんがくれたサドルはBBBソフトシェープ。もとは結構高いのだが特価品を見つけたので3人の中では一番安い。(否!サンタさんのお財布に一番やさしい!)

 602は現在オリジナルのサドルにゲルカバーを付けているが、どうサドル1もカバーがづれてフィット感がない。しかも突き上げのたびにお股の真ん中にヅキッと響くのだ。カミサンも細身のサドルが御気に召さないようなので、“穴とみっく”形状のちょっと太めのものにした。
 それにしてもちょっと太すぎたかな。ほとんどママサドルの真ん中に穴が開いたようなものだ。
 流石に究極のコンフォートタイプであるので柔らかさはママサドル以上だ。おまけにエストラマークッションがついている。サドル3ただしエストラマー部分を押してみても全然沈まない。エストラマーって効果あるのかしら。

 とりあえず計量。ゲルとエストラマーがついて重さは734g。ママサドルと比べれば全然軽いのだが、現サドルがゲルカバー含めても600gそこそこなので結構重く感じる。

早速付けてみたいところだムンク?が、とりあえずもうひとつのパーツの到着を待って一緒に取り付けることにする。

それにしても、裏返してみたところのなんともいえぬデザイン!もろにムンクの“叫び”?である!!



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602 トラブル その2


 602の補修に取り掛かる。ホームセンターでグラインダーと白ペイント・ク補修2リアラッカーを購入。
 

 応急でバリの部分を黒ペイントで塗ってしまったので、バリ取りをあわせてグラインダーで研磨する。



補修3
 研磨した部分を白ペイントで2重塗り




 
補修4
 その後でクリアラッカーを上塗り。遥か昔、板金に出す金がなかったころにマイカーのキズ・錆びをDIYで塗って以来だ。時間の余裕がないのでドライヤーで強制乾燥。
 


補修5
                    
 スタンドを元の位置には付けられなかったのでずらして位置決め。Wレッグスタンドに付属していた固定用金具を再使用。ボルトは長さが合わないので計って再購入。

 結局、チェーンステーにワイヤーフックが突起しているため、この位置にしか付けられない。クランク・チェーンホイールに干渉しないか確認。ぎりぎりでクリア(ボルトが緩んでスタンドがずれたら非常にやばそう‥‥)


                     補修6


 本締めの前にチェーンステーにゴムをかませた。締める際にアーレンキーがシートチューブに干渉して厄介だったが、何とか本締め完了。

 


 1時間弱の突貫工事だったので塗装面にかなりの斑がででしまったが、どうせ今後も塗り直しが必要になるので、これで仕上げにした。センタースタンドの位置はむしろバランスよくなった。
補修7





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602 トラブル

 602初トラブル発生!折れた
 
 なんとセンタースタンドの取り付けステーが根元から千切れてしまった!
 数日前からスタンドの接地状況が悪く、昨日あたりからは完全にタイヤが地面に接地してしまった。みるとスタンドがぐらついている。ボルトが緩んでしまったかと思い。締めようと思った矢先にパキン‥‥
 確かに通勤と買い物、物置の奥への折れた1収納でスタンドには過度の負担が掛かっていたかもしれない。 それでもステーから折れるとは!。
 ステーをスタンド本体からはずす。曲がっている。こんな柔なステーかな。
 オリジナルの写真を見てみる。スタンドはリア軸より取り付けられている。ここはもともとスタンドを取り付ける場所ではなかったようだ。

 この折れた3柔なステー自体はフレームの補強にはなっていないようだが、取れたところをそのままにしておくと、そこから腐食が進行してしまうので、とりあえず黒のペイントで仮補修する。最近通勤と買い物で毎日使っているのでオーナー同様疲労を起こしたのか?
 
 対処としては腐食防止の塗装と、スタンドの取り付け位置変更が必要。
 
 とにかくしばらく使えないので困った‥‥




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サイコン トレロック

サイコン
再婚ではない。
ついに念願のトレロックFC535を入手した。
今年の8月もう入手困難かとあきらめてサーファスレ ベル1を購入。
これはこれで気に入っていたのだが、たまトレロックFC535にわずかに市場に出回るものを捕らえてゲットした。
 6千円は高い。これだけの機能は必要ない。けれど丸型のお釜並みの分厚さ(ナイトライトベース機能付のため)がいかにも“メーターです”って感じで好きだ し、何より丸いデザインはほかにない。またこのアナログっぽいデザインがまたいい。メーターはやっぱり丸です!これでほんとにアナログ針のメーターなら もっといいのに。
 早速取り付け、チョイノリを2〜3回。いかにもメーターらしくていい。
 が、まったく満足というわけでもない。期待し ていたナイトライトはブルーで綺麗だが電池を別にしている割りに暗い!
 メーターの反応がサーファスレベル1より全然遅い!!3倍近い価格なの に‥‥。
 SC−M300はハブダイナモ直SC−M300結のためかナイトライトは常時点灯。レスポンスは非常にいい。5機能しかないのでマニアからはまったくのおもちゃ扱いされ ているが、ハブダイナモがあればこれはお勧めだ。江戸川区の某ホームセンターでいまだ旧割引価格で売っている。
 サーファスレベル1は MOTTAINAI(もったいないはいまや国際標準語です!)のでラブソニックに取り付け。こればかりに気をとられて事故っては困るのだが‥‥。

 
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聖徳太子

もうすぐボーナス。
今年はもらえるのか、業績悪いし、評価も悪いし。
今は何所でもほとんど現金支給というのはなくなってきているが、昔は聖徳太子様といえば非常に価値のあるありがたいお方だという認識があった。正直福沢諭吉様だとなんとなく有り難味が半減してしまう。
で、また思う。
聖徳太子は何故天皇になれなかった?
いろいろな論文や書籍があって、ある意味“邪馬台国は何所?”“王朝交代はあったか?”と同じくらい研究のネタになるようだ。世代交代の関係、血統争い、曽我氏との確執等々。関連本集めたら本屋が出来る?
しかし素人は単純に思う。“天皇になれなかったではく、はじめから天皇でないから聖徳太子になった”んじゃないのって。

聖徳太子の受売りの解説は不要だろう。ただし単純に国民的ヒーローと見れば似ているケースがもう2つある。ヤマトタケルと水戸黄門である。

ヤマトタケル。現在では非存在説が定説のようになっている。でもオグナ王(小碓命)またはそれに近い立場の皇族が存在していたはずだ。小碓命も景行天皇の王子で、あれだけの業績がありながら天皇にはなっていない。水戸黄門も徳川一族だが将軍になれる血筋ではない。実在の人物、徳川光圀公は大日本史の編纂に尽力した人物だが、もちろん印籠を持って日本中の悪人を懲らしめたわけではない。ただ徳川光圀公という人物がどのような経緯で水戸黄門になったかは、近世だけにかなり確証に近い原因は研究されている。

古事記のヤマトタケル。日本書紀の聖徳太子。そして講談の中の水戸黄門。時代の違い、仕掛けた人物の立場の違いはあるが、これらの人物はみな時の権力に対するアンチテーゼのような立場で描かれているように見える。天皇になれなかった、将軍になれなかったわけではなく、もともとそれだけの立場の人間ではなかったので、後世ヒーローにする格好のネタになっただけだと思う。聖徳太子は何故天皇にならなかったかではなく、聖徳太子のモデルは誰でどうゆう人物かの方がよほど興味はある。

中の暖 聖徳太子はいたか、いなかったか‥‥。
否!聖徳太子は今も自分の心の中で生きている!。お財布の中の暖かい温もりとして‥‥。

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深川不動尊

 毎月28日はお不動さまの日。
カミサンの守り本尊が不動明王。誕生日が聖日百味祈願、つまりお不動さまの日なのである。久々にお不動さまの日に深川不動尊に行く。
 深川不動尊は
成田山新勝寺深川不動尊という。あの成田山の別院なのである。本堂は文久2年(1862年)建立とあるが、これは千葉の成田山に近い龍腹寺の本堂を昭和26年に移設したものだという。以前の本堂は空襲で消失している。
 この本堂も傷みが激しく、横に新本堂を建設にするらしく、以前御札場だったところは現在工事中なっている。

 深川不動尊は護摩焚きで有名である。実際に自分の護摩札を焚いてもらうのは年1回なのだが、時間があればよく本堂に上がっては護摩焚きに参る。いつも数珠を持ったお年寄り、念仏を唱えた信者が絶えない。
 そんな人々に混じって前のほうに座る。30分くらいの法要。信心深いわけではないが、何がいいのかというと護摩焚きの際の若い僧侶が叩き出す大太鼓の強烈なビートである。あの響きは心が洗われるというより、聴いているだけで何か心がスカッとしてくる。みくじ
 
 読経をヒーリング的に楽しむ人はいるが、ここの護摩焚きはロックビートのようにストレス発散になる。不信心であると叱られそうだが、これもお不動さまのお恵みである。今でもよくラップなんかをでかい音で流している車なんかに出くわすが、これを大音響で流しているほうがよっぽどノるぞ!。

 と、言うことで帰りがけに娘がおみくじを引く。普段くじ運悪いのに今回は大吉。学問→安心して勉学せよ!
 ゲームばっかしてないでもっと勉強してくれよ!
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太田天神山古墳

 天神山古墳は誰の墓だろう。
10年以上前にそこを訪れ、まず考えたことである。 
それは太田市の市街地から少し外れたところにある。
 古墳といえば仁徳稜(今は大仙古墳と呼ぶのだが)、関東で言えば鉄剣の出土した稲荷山(埼玉古墳)がメジャーだが、大田天神山といっても、よほど古墳に興味のある人間でないと出てこない名前である。
 天神山古墳は墳丘長210m、二重の周壕を含むと東西290m南北350mにも及ぶ東国最大の超弩級墳墓である。墳丘長だけ見ても全国でも30位内に入る。ただしこれより大きな墳墓は大阪府・奈良県・岡山県にしかない。つまり天皇家と有力な血縁豪族の墳墓だけなのである。有名な埼玉古墳の稲荷山でさえ復元長117m、半分ほどの規模に過ぎない。以前訪れたときは石室の一部が斜面に露出していた。この石室も当時としては関東屈指の規模だという。


 群馬県一帯はかつて毛野の国といわれた東国屈指の大国であったという。100m級の大型墳墓も十数基現存し、多数の副葬品も出土されている。天神山古墳も毛野の大首長の墳墓とされている。
 書紀によれば毛野の国は崇神天皇の長子豊城入彦命を始祖とするとあるが、あくまでもヤマトによる併合を正当化する記録であり、毛野氏側もヤマトの中での地位向上のため進んで取り込んだものだろう。

 毛野氏に連なる名前は地方豪族にしてはかなり多くが知られている。唯一悪名を残された大首長小熊を除けば、ヤマトの中央官僚や将軍として東国や半島での活躍にその名が記されている。

 天神山古墳は5世紀中葉の建造とされる。以前は小熊の祖父か曽祖父のころのものと考えていたが、当時の世代継承から考えると更に数代前となりそうだ。時代的には応神天皇稜の時代に近いという。
 研究者によると荒田別・竹葉瀬・田道等が比定されるというが、あくまで文献と照らした可能性としてである。
 皇族稜に匹敵する規模の墳墓だから少なくとも記紀に何らかの名前を記された人物のものと思われるが、残念なことに磐井≒岩戸山というような決定的文献がない。

 天神山古墳は荒田別の墓なのか、それとも竹葉瀬あるいは田道のものか、またはまったくの別人を埋葬したものなのか。群馬に現存する大型墳墓、倉賀野浅間山・白石稲荷山などや、豪華な副葬品を出土し、今は失われた前橋天神山は誰の墓なのか、毛野国最後の大首長である上毛野君小熊の墓はどこなのか‥‥そんな思いを寄せながらまた再び群馬の古墳を巡りたいものだ。

 

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海底軍艦

 東宝特撮映画DVDコレクションの海底軍艦が出たので購入。
ビデオデッキが壊れて以来じゃみじゃみのダビングビデオはお蔵入り。数年ぶりに25インチの超大画面??で感動再び。カミサンが「こんな綺麗な画像だったの」といやみとも取れる感嘆。
 海底軍艦は昭和38年公開の東宝のSFスペクタクルである。初めて見たのは多分リバイバルのものだったろう。当時は配役やストーリーよりも轟天のかっこよさと迫力に子供ながらの感動を覚えたものだった。
 今見るとやはりCG全盛の特撮と違いミニチュアや画像合成などは粗もあるが、最後の海上爆発などは今の映画と比べても見劣りはしない。さすがである。何よりも特撮シーンをカバーして余りあるのが伊福部昭の音楽効果である。キャストも高島忠夫・上原謙・小泉博・高田稔など錚々たる顔ぶれである。田崎潤も東宝戦争もの怪獣もののレギュラー的存在だが、自分が見た映画の中ではこの神宮寺大佐役が一番魅力的だった。ファンである平田明彦がムウ人のスタイルで出てくるとちょっと幻滅してしまうが‥‥日本誕生の武彦役の倭人スタイルは結構よかったんだけどなぁ。
 
 以前はただ々々面白いで見てきたのだが、いまさらに見ると“?”と思えるところがいくつも出てきてしまう。
 ?の1 フリッツラングのメトロポリス張りの超科学地下都市に住んでいるムウ人はいつもあんなかっこをしているのか
 ?の2 スパナを灼熱にする工作隊員23号の手袋はどうなっているのか
 ?の3 あれだけの科学文明を持ちながら轟天挺身隊を迎え撃つムウの守備隊の武装が槍とナイフだけなのか
 ?の4 ハッピーエンドを迎えた後の轟天の帰属に関してまた国際問題の火種になるんだろうな
  等等ほかにもいっぱい‥‥
 
 素直に感動していればよいものを、つまらないことに目が行ってしまう。
轟天にしても電子砲や大型魚雷を搭載しているのだから、切り札の冷線砲の乱発だけに終わらず、ムウ艦隊との砲撃戦もやってほしかったし、マンダにしても怪獣総進撃の選抜メンバーにしてはあまりにもあっけなさすぎる。
 
 しかし、いろいろあるにしろ、今見ても十分楽しい映画である。海底軍艦はその後アニメ化(設定はまったく違うようだが)されたりもしているが、できれば現代CGを駆使したリメイク版なんかが出てくると面白いかも知れない。そのときはあの超文明をもったムウ人の武器が古代の槍だけという理由も是非明らかにしてもらいたいものだ。



 
 
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自転車で健康になる??

 先日、人間ドックにいく。
このところ体重は6kgほど減少し、定期的に通っている血圧の検診では高血圧がだいぶ改善しているということで薬を減らされており、密かに期待はしていたのだが、結果を知らされてにっこり。

 体重・血圧のほかに、腹囲・悪玉コレステロール・尿酸・中性脂肪すべて下がっている。前回まで赤表示だったものがすべて正常値に入った。おまけに善玉コレステロールと肺活量はUPしている。特に体調のよさを体感しているのではないが、データ上ではいいこと尽くめ。
 思い当たるふしもないが、強いて思えば自転車を始めたことくらい。通勤に4〜5km、週末に20〜30km程度では要因としてはちょっと信じられないが。
 が、確かに自転車を始めて、ただ歩いているのと意識して漕ぐのでは違うのだろう。唯一困ったことといえば、最近ズボンがぶかぶかで穿けなくなり、細身のズボンに買い換えている出費が掛かってしまうことくらい‥‥。

 いまいち半信半疑なのだが602、考え様では車重全体で6kgの軽量化である。13kgそこそこの自転車にとってはすごいことである。どんなに高価なパーツをつけても6kgの軽量化はできない。
 
 単なる偶然かもしれないが“自転車で健康になる”と迷信のように信じることで更に乗ることの楽しさが増す。
 
 ということで、気をよくしてまたまた我が家のオチビを伴いちょっとうれしいポタリング。久々の荒川土手。今回は602が出動。サドルカバーがついてちょっとお尻に優しくなった。
 娘を遊ばせているうちに、ラブソニック持ってきたお弁当・お菓子をあらかた平らげてしまい、食べすぎの胃もたれに。早くも慢心によるリバウンドの恐怖

 今回走行、16km
ラブソニックと602号

おにぎり・菓子パンを貪りながら撮影。やはり比べてしまう451‥‥。
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JOURNEY

 なぜかJOURNEYにはまり続けている。
学生時代に“WHO’S CRYING NOW”と出会って、もう30年近くなる。(歳がばれる?)
 あの当時失恋と相俟って、友人と横浜の公園の裏手(のようなところ)に毎週のように出かけて一晩中語り明かしたことを思い出す。そのときに流していたのが“WHO’S CRYING NOW”。
 今では友人の所在も不明、当時のその場所がどこだったかも思い出せない。(元町のあたりだったような)この曲がJOURNEYと知ったのも、その数年後のこと。自分にとってはもうひとつの名曲“SEND HER MY LOVE”が偶然にもJOURNEYと結びつけてくれた。
 
 それ以来、この2曲はカセットからMDへと当時のラジオから録音されたままで聴き続けていた。その後パーツパーツでJOURNEYの曲と出会っていくのだが、あのエルグランドのCMでついに我慢できなくなり(我慢するほどのことか?)自分のお気に入りすべてが入っているベストアルバムを購入した。
 特にお気に入りは上記の3曲“WHO’S CRYING NOW”・“SEND HER MY LOVE”と“DON’T STOP BELIEVIN’”である。JOURNEYといえば日本での代表曲は“SEPARATE WAYS”や“OPEN ARMS”なのだが、やはり音楽は個人の体験や思い出とともにあるものなのである。
 20数年ぶりにCDのクリアな音でよみがえったJOURNEYの名曲たちには、また新たな感動を覚えた。
 
 最近、仕事でKARANO号に乗る機会が増えた。月間1、000kmを超えるようになり、タイヤ交換の危機がちらほらしてきた。
 信じられないかも知れないが、我が家ではいまだにレコードやカセットが現役である。KARANOにはカセットデッキがないのでMDにイコライジングコピーして聴いているが、いまだにCDよりレコード盤のほうが多い。(CD・MD・イコライザー自体がすでに前世代ものだが)

 一人で車に乗る楽しみは、なんといっても我が家で唯一の視聴覚室に変化であることである。純正装備のスーパーサウンドシステムはこれで十分いい音である。
 仕事での夜の高速のお供には必ずJOURNEYが入っている。今まで無数の曲に感動してきた。久々に引っ張り出してきて、新たな感動をくれるアルバムやアーティストは多いが、JOURNEYのお気に入りは20数年聴き続けてもまったく色あせない不思議な名曲たちである。 にほんブログ村 その他生活ブログへ
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KOUTOU OUTBACK

このごろ遠出にいけてない。仕事が多忙・子供の行事盛りだくさん・四十肩で腕が上がらない等等。
暇をみては行くのが(気分で銀座有楽町を含む)月 島→晴海→豊洲→東雲などの臨海周遊コース。月2回程度、15〜25km程度のお買い物スポットめぐり(当然見るだけぇ)である。普段の足は通買602号 なので、こうゆう時でないとTS−7は出動できない。
 
 毎回休憩するのが晴海大橋の上。パーツを新調するたびにここで豊洲をバックに写 真を撮る。今回は珍しくお台場側で休憩タイムにする。こちら側の景色が嫌いなわけではない。こちら側は必ず“気分は逆光線”ではなくほんとの逆光になって しまうだけの理由で写真を撮るときは豊洲側と決めている。
 
 しかし今回はカメラを持ち出している。先代から使い続けたコイルロックを新 調し、無名ステムから格安ヤフオクでゲットしたボントレガーステムに変更。更に工具入れを間に合わせのウエストポーチからまともなサドルバックにしたとい う変更があったから。

 transit outbackボントレガーステムは無名ステムより30mm長く60gも軽い。仰角73度でほぼ水平。以前より前屈になるのはいいが、前 より腕に負荷がかかるので四十肩にはつらい。
 鍵はU型錠にしたので施解錠は楽になった。リクセンカウルのコイルホルダーが余るのでリフレクター をステーで付けて“プチリクセン化”を施した。特に使用上の意味はない。リクセン化という語呂がなんとなく面白かったから。
 ちなみにリアにはエ クステンダーが着いている。いつもエクステンダーだけのフォトであるが、一応“フリーパックメタ1”と“ショッパーコンフォートミニ”は持っている。どち らかというとショッパーの方がよく使うが今回のお供はメタ1である。
 今回のお気に入りはエクステンダーに取り付けたサドルバック、オーストリッ チ(らしい)のアウトバックである。特にこれを買おうと決めていたわけではない。ショップでイエローラベルでざる特売されていたものだが、何よりも “OUTBACK”という響きである。ランカスターやクロスカントリー、ARX−4でもいいが、やはりアウトバックである。この名前と黄色の値札で買った ようなものである。
 とはいえ、形がエクステンダー吊り下げにぴったりで、メタ1との色合いもよく、取り付けの邪魔にもならないし、予備のチュー ブまで入れられるので正解であった。

 写真をとった後に景色を眺めて一服。
 お台場晴 海大橋から見るお台場方面、自分の若いころとは別世界である。その当時豊洲周辺は造船所と鉄工所でその先の埋立地を走るのは清掃車だけであった。出来立て のユニシス本社ビルだけが異様な世界だった。
 今でも市場の予定地の広大な空き地が残された最後の江東アウトバックのように思える。
 
  自分はこの景色が好きである。行くたびに増えていくSKYSCRAPER(BBBのシートポストではない)とこれから建つであろう広大な空き地。
  中央防波堤の埋立地が文字通り最後のKOUTOU OUTBACKになるころには、ここの草原も消滅しているだろう。
 オリンピックも来なくなっ たし、築地市場はいつ移転するかもわからない状態だが、財政的損失を別とすれば、ここは当面このままのほうがよい。 むしろこのままのほうが損失は少な かったりして‥‥。
 
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生産終了

愛車が受注終了となって1ヵ月がたつ。
新機種の情報もないのでいよいよとは思ってはいたが。
愛車が生産中止になるのは初めてではないし、乗っている間にフルチェンジしてしまうのもいつものこと。
だからどうと言う事もないが、後継モデルがないというのは残念な話しだ。
 
 今の世の中3.5Lのフルタイム4WDなど地球資源をばら撒き捨てる悪の権化なのだろうか。
660ccで25km/L走る車より3500ccで6.5km/L走る車のほうがはるかにエコである。‥‥ともいえる。家電は大型化していながらエコを争う。矛盾した現象。単に冷蔵庫も洗濯機もテレビも小さくすればいいだけの話とおなじ。エコを名目に車を小さくする奴が何故大きなテレビを買う?
 
 もっともガソリン代がばかばかしくなって自転車に走ったのも事実。環境と経済を考えるなら乗る回数を減らせばいいだけのこと。エコだから買い換えようという発想自体が資源の無駄遣いではないか。今の愛車が歴代所有車の中でもっとも月間走行距離が少ないのも現実だが、それでいて不便を感じるわけでもない。
 
 とにかく、絶版になるのは自分のステータスのひとつである希少性の助長にはなるので、マイナスではないということにしておこう。もともとこのグレードが同車の中でもっとも不人気なグレードだったのも確かなんだけど‥‥。
 話題性がなくなることを気にする必要もないし。もともとミニバンの中ではハブだったのだから、マイペースでこれからも頑張ってもらえればいい。ワンオフサスで車高UPして林道を走る夢は断念せざるを得なかったが(その分自転車に入れ込みすぎてしまったが)。
 
 ひねくれているのは、やはりどこかに寂しさがあるからかな…


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サイコン&ライト1

SC-M300&サーファスSI-1イクルメーター、SC―M300のあとがまとしてリリースしたのはサーファスSI−1。トレ ロックFC535が現在入手困難になり、代役として決定。とにかくやっとメーターがつく。
 販売価格でいくとFC535の半額以下。…おかげでラ イトをツインにできる。
 デザインや質感ではちょっとチープだが、文字の大きさ、見易さ、ナイトライト付きという点では合格。アナログデザイン (といってもデジタル表示だが)の速度表示がないのが残念だが、機能的には同価格帯の上記2品と大差ない。
 サイクルメーター
 安価とはいえ自分の使い方としては十分すぎる8機能を有している。現状ではポタリングや50km以内のショート ツーリングなのでケイデンスまでの必要性を考慮しなかったが、距離と速度はほしかった。やはりちょいのりにしてもメーターがあると楽しい。というよりはな いと気になる。
 …それにしてもSC―M300はでかい!
 
 次にライト。チョイスしたのはHL−EL520。HL-EL300
お蔵入りしていたHL−EL300を仮付けしてみたが、買った当時は驚異的な明るさだと思っていたのに、やはり最新のもの と比べるとかなり見劣りしてしまう。もっとも都会の街中では今でもこれで十分ではある。

EL300-1
家の近所で一番暗いところは実はトランクルームの屋内。ここで明るさの比較。
 
上よりEL―300・ EL−520・EL−520W灯。照射位置から突き当たりの窓(ぶれていて心霊写真みたいだが)までは約9m。EL520-1
 EL―300はバッテリーが新品でないハンデがあるが写真写りほど暗い感じはない。狭い通路を全体的に薄暗く照らしてい る。
 EL−520は中心部は確かに明るいが側面に行くほどEL―300との差はなくなる。黄色がかっているので全体的には見安い。
 W 灯火の場合焦点を合わせると非常に明るいEL520-Wが、市街地では不要。暗い道などは焦点をずらして広範囲を照らすこともできるのがW灯火のメリットになりそう。
 市街地使 用では、盗難等も考えるとHL−EL300でことは足りる。但し、取り外しての持ち歩きを考えればHL−EL300/1個でもEL−520/2個でもあま りかわらない。

 SC―M300はツインライトのLP―M30HL-EL520&SERFAS SI−10との一体化でハブダイナモ電源よりナイトライトを点灯させる。
 トレロックは別とし てサーファスやベッタのナイトライト機能は本体の電池からの電源なので、本体電池の消耗は多くなる。バッテリーライトと連結してライトスイッチをオンにす るとライト側バッテリーとメーターのナイトライトが連動するものがあってもいいんだけどねぇ。
 ボタン電池からのライト電源は負荷が高いけれど、 単3/4本からならほとんど負荷にはならないと思うのだが……。

transit7 451 とりあえず、月島から晴海・豊洲・有明とお決まりのコースを20kmほどポタリング。メーターなしで30kmほど走った ときも、けっこういいペースと思っていたが、以前の感覚でこいでいると2〜3km巡航速度が上がっている。これじゃ疲れてしまう。前の巡航速度にあわせる と非常にのんびり感の余裕が出る。ホイール交換の効果か……451恐るべし!
 否、もしかしてメーターの初期セッティング間違えているだけだった りして……。
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同居人その2

 ドジョウが我が家の同居人になって1ヶ月。今度はカブト虫が突然やってきた。かみさんの同僚の人が家の近所にカブト虫がたくさん取れるところがあるというので、夜案内してもらった。
 場所は埼玉県某所。東京から下道で1時間ちょっと。こんなところにいるのかねぇ、とおもったらけっこう目視できるところにいるから驚き。結局その日は取れなかったのだが、娘が迷い込んだ民家(ごめんなさい)で、その家に飛び込んできて捕まえられたという大きなカブト虫の♂をちゃっかりいただいてきてしまった。近所ではこの場所は有名らしいが、東京からきたというので手ぶらではかわいカブト♂♀2そうということらしかった。(夜に勝手に侵入してきた見ず知らずの子供にどうもありがとうございました。)
 と、いうことでドジョウハウスのほかに急遽、新築が必要となってしまった。我が家のテーブルはドジョウとカブト虫の豪邸に占拠され、テブリーヒルズとなってしまった。
 そして更に驚愕の事件、翌日夜、突然管理人さんがやってきて、娘にカブト虫の♀をおいていってくれた。夜警をしていたらマンションの踊り場にいたそうだ。
 実は去年も夜警中にクワガタを見つけて、もらっている。飼われているのが逃げたのか、それとも付近のカブト♂♀1緑地に生息しているのか。(そういえば数年前にも遊歩道を歩いていたらクワガタと衝突したことがあった。家の周囲の環境は確かによくなっている。都会も捨てたもんじゃない…か)
 カブト虫は夜行性なので、昼はマットと朽木の下にもぐっている。深夜となるとでてきて昆虫ゼリーをアサってカタカタと音を立てる。うるさくて眠れない。こちらは癒しにはならない!セミのふ化
 ま、とにかく3LDK3人家族、自転車3台・車1台+同居人4匹の生活が始まった。

ps カブト虫とりのときにつかまえたセミの幼虫がふかしたところ。


 
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livedoor プロフィール

枯野

愛車紹介
1.PRESAGE U31
愛称KARANO号
  :いまや歴史遺産となりつつある3.5L/フルタイム四駆。最近は金欠でタコメーターしか見れなくなった。2002年モデル。

2.MR−4
  :GIANTのロングセラーフォールディングバイク。18年間コンパクトスポーツの頂点に君臨した名機。2010年モデル。FからSE擬き仕様にDIY。

3.SOMA SAGA『嵯峨』
  :米国ソーマファブリケーションズのツーリングフレームに格安パーツを買いあさって組み付けたグラベル風クロモリツーリングバイク。年式不明

4.ALPENCHALLENGE   AC02
  :レーサー志向の本格バイクを投入する『BMC』の珍しい26インチアルミバイク。ストックパーツを再編成して復活した我が家の軽量クロスバイク。2010年モデル。  
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